なぜ、岩櫃城・潜龍院跡は麓に建てられたのか。

筆者は2025年11月に初めて潜龍院を訪問しましたが、何故、この場所に建てたのか疑問を持つようになりました。武田勝頼を守ることを考えると、もう少し山の中の方が良かったのではないかと。潜龍院は岩櫃山の南麓に開けた平坦地にあります。庭園のような雰囲気がありました。
山の麓ということもあり、当時は不明ですが、今は潜龍院跡の近くに集落があります。
岩櫃城本丸に比べて、前線に近く、守りが手薄ではないか感じました。
地図上に潜龍院跡と、その関連地である岩櫃城を表示しました。
ご覧の地図で、両者の位置関係を確認できます。
この現地で感じた疑問を基に、単なる岩櫃城の防御だけでなく、出城である郷原城との連携を含めた真田昌幸の多層的な防御戦略を徹底解説します。
潜龍院跡(古谷館)と岩櫃城の位置関係
- 潜龍院跡は、群馬県東吾妻町の岩櫃山(岩櫃城)の南麓に位置しています。
- 山城である岩櫃城の頂上や本丸からは少し離れた、麓に武田勝頼を迎えるための館(御殿)として築かれました。
- 地図からも、岩櫃城が天然の要害である岩櫃山の急峻な地形に位置しているのに対し、潜龍院跡はその岩櫃山のすぐ眼下に開けた平坦地にあることが分かります。
潜龍院の建設目的

- 主君・武田勝頼のための御殿: 潜龍院は、天正10年(1582年)の甲州征伐時、岩櫃城主の真田昌幸が、追い詰められた主君・武田勝頼を迎え入れるために急造した館です(古谷館)。
- 迎賓施設としての機能: 城の「守り」の最前線である山の上ではなく、日常生活を送るための「御殿」として建てられたため、麓の比較的平坦で広い土地が選ばれた可能性がある。
- 快適性・利便性: 追われ疲れた勝頼一行(女性や子供も含む)に、山頂の不便な本丸ではなく、生活しやすい平地に近い場所で休養させる必要があったのではないか。
守りづらい点への考慮
山城である岩櫃城の頂上部に比べれば、麓の館は守りづらい場所です。しかし、以下の点が考慮されていたと思われます。
- 岩櫃城による防御: 潜龍院は、背後にそびえ立つ天然の要害である岩櫃山と、その山上に築かれた岩櫃城の守備範囲内に位置していました。城が機能していれば、館自体が直接攻撃される危険は低減されます。
- 一時的な避難場所: この館は、勝頼が体勢を立て直すまでの一時的な避難・滞在を目的としていた可能性が高く、恒久的な戦闘拠点としての防御力よりも、勝頼が落ち着いて過ごせる環境が優先されたと考えられます。
- 地形的な利点: 麓とはいえ、潜龍院跡がある場所は「吾妻川の左岸の河から120mの高い位置に信じられないような広大な平坦地がある」とされており、周囲からは見えにくい(「木立のベールに包まれている」)特異な地形を利用していたようです。
郷原城の築城
郷原城は岩櫃城(いわびつじょう)の支城(出城)の一つとされ潜龍院と共に築城されたといわれています。
郷原城と潜龍院の関係性
- 一体的な要害(防御施設): 潜龍院(古谷館)は、真田昌幸が武田勝頼を迎え入れるために急遽造営した御殿であり、敵の侵入を防ぐために岩櫃城の出城である郷原城と連携して防御体制を敷いていたと考えられています。
- 潜龍院は、東側を郷原城、西側と南側を急斜面や土塁で守られていた、と解説する見解もあります。
- この地理的関係から、郷原城は潜龍院への侵入を監視し、防御する役割を担う重要な「門」のような機能を持っていたと推測されます。
- 郷原城は、単なる一つの城としてだけでなく、岩櫃城と山麓の潜龍院(古谷館)という主要な拠点を守るための防御線の一部であり、この三者を繋ぐ主要な通路上に築かれていた可能性が高いです。
現地訪問者の感想
筆者は現地訪問する前は郷原城という存在を知りませんでした。潜龍院を現地訪問し、立地に関心を持つことになりました。そのおかげで、真田昌幸の主君への忠義や配慮、防御システムを知ることが出来ました。
結局、武田勝頼がこの地に足を踏み入れることはありませんでしたが、潜龍院、郷原城、岩櫃城という三位一体の防御システムには、勝頼を見限る者が続出する中で、最後まで主君を見捨てなかった真田昌幸の並々ならぬ「忠義と配慮」が凝縮されています。現地に立って初めて、その深い主君愛に感銘を受け、ますます真田昌幸が好きになりました。
まとめ:常識を超えた真田昌幸の「主君愛」と「戦略」
現地で感じた「なぜ、こんな前線に近い麓に?」という疑問は、潜龍院(古谷館)が武田勝頼を迎えるための「御殿」という特殊な使命を持っていたことで解消されます。
この配置は、単なる戦闘拠点の常識を超えた、真田昌幸の深謀遠慮の結晶でした。
- 快適性・利便性を優先し、生活の負担を減らすため麓に配置。
- 安全面は、背後の岩櫃城と、連携する出城・郷原城による多層的な防御システムで完璧に担保。
潜龍院の立地は、追われ疲れた主君・勝頼に「安らぎ」を与えつつ、万が一の事態には「絶対的な防御」で守り抜くという、昌幸の強い忠義と、知将としての冷静な計算が結実した場所だったと言えます。




