戦国最強と謳われた武田軍団。その終焉は、あまりにも切なく、そしてドラマチックでした。 天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍に追われ、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は、自ら築いた新府城に火を放ち、最期の逃避行へと向かいます。
武田勝頼が目指したのは岩殿城(大月市)でした。
2026年2月22日、武田家滅亡という悲劇の9日間を、現代の道に重ねて巡ってきました。
今回は、勝頼公一行が歩んだ「甲州征伐」の足跡を車で巡る、歴史ファン必見のドライブコースをご紹介します。
- 新府城跡(天正10年3月3日の早朝、勝頼公自ら火を放ち、岩殿城を目指して出発しました)
- 武田八幡宮(天正10年2月19日、北条夫人が願文を奉納しました。逃避行中、ここには寄っていませんが、新府城付近で武田八幡宮を見たかもしれません)
- 涙の森(天正10年3月3日、北条夫人がここで城を振り返り涙した場所)
- 泣石(天正10年3月3日、別れを惜しんだ場所)
- 大善寺(天正10年3月3日もしくは4日、勝頼一行が立ち寄る)
- 景徳院(天正10年3月11日、勝頼たちが自害した場所)
旅の始まり:悲劇の未完成城「新府城」と「武田八幡宮」
まずは、山梨県韮崎市にある新府城跡からスタートです。
新府城跡
勝頼が再起をかけて築城したものの、わずか68日で自ら火を放つこととなった悲劇の城です。広大な空堀や本丸跡に立つと、当時の勝頼の焦燥感が伝わってくるようです。

新府城の復元図です。私は西出構から本丸を目指しました。西側は断崖絶壁の七里岩が守るので敵方は北と東、南側を攻めることになります。
写真は東出構ですが、西出構も同じ形をしていました。北からの侵入者を迎え打つ施設説と堀の水の高さを調節する施設説があります。恐らくこれは未完成で、何か機能を追加する予定だったのではないでしょうか。いくら水堀に囲まれるとはいえこれだけでは頼りない防御施設です。


写真は井戸跡。城の北側の守りである西出構や乾門桝形虎口に近い場所にありました。この位置ですとどちらか突破されると簡単に水は奪われます。北側は拡張し防御力を高める予定があったかもしれません。
本丸跡と二の丸跡は広場になっています。写真は本丸跡です。ここは大河ドラマ真田丸のロケ地にもなりました。当時は本丸だけにしか建屋がなかったといわれています。


写真は本丸・藤武神社へ向かう階段。この階段を登っていくと本丸に辿り着きます。当時はこの階段はありませんでした。この傾斜を見るだけで防御力の高さがわかります。
新府城跡の最大の見せ場。大手丸馬出と三日月堀エリア。空から見ると最高でしょう。ドローンを飛ばして空撮してみたいです。真田幸村が大坂の陣で築いた大坂城南側の「真田丸」は新府城の丸馬出、三日月堀から影響を受けていると言いわれています。


大手桝形虎口から撮影した富士山。きっと武田勝頼もここから富士山を眺めたでしょう。
【新府城の現地レポート】未完成の夢と、武田勝頼の孤独な決断
今回、初めて新府城跡を訪ねました。 昨年訪れた八王子城や鉢形城、そして箕輪城といった関東の名城と比較すると、その「完成度の低さ」は一目瞭然です。実際にこの地を歩いてみると、ここが戦うための準備が整わない「未完成の城」であったことが、肌身に染みて理解できます。
特に防御の要となるべき北側は、あまりにも脆い。 背後の守りを固めるべく支城の「熊見城」を中心とした北方防衛ラインを敷いてはいたものの、織田・徳川連合軍の大軍を防ぐには、あまりに心もとない規模です。
2026年3月の今、二の丸や三の丸を歩いても、そこにあるはずの建物の痕跡すら確認することはできません。本来、そこにあるべき武家屋敷や兵舎が建つ前に、歴史の針が止まってしまったことを物語っています。

一方で、大手門付近に施された「丸馬出」と「三日月堀」の遺構は見事の一言。武田流築城術の粋を集めたその意匠を眺めるほどに、この城が「完成版」として機能していたなら、どれほどの威容を誇っただろうかと想像せずにはいられません。
天正10年(1582年)3月3日、早朝。 勝頼公は、自らこの城に火を放ちました。脱出の際に付き従った兵士は、わずか500名から600名。
たとえ城が完成していたとしても、この兵数では広大な新府城での籠城戦は不可能です。もはや勝頼公には、連合軍との決戦に挑むことすら許されていなかったのです。
燃え上がる「未完の夢」を背に、岩殿、そして天目山へと向かった勝頼公。 その足跡を辿る旅は、一人の武将が背負った絶望と、あまりに過酷な運命を私たちに問いかけてくるようです。
Drive Tip: 新府城跡の駐車場は広く、高台からは富士山や南アルプスを一望できます。歴史の重みと絶景を同時に味わえるスポットです。
武田八幡宮
次は城からほど近い、武田氏ゆかりの氏神。織田軍の甲斐侵攻が間近に迫った時、勝頼公夫人(北条夫人)が武田八幡宮を訪れ夫勝頼公の武運を願った願文を奉納してます。
願文の要旨(現代文訳)
「謹んで申し上げます。……今、武田家は存亡の機にあります。
願わくは、神仏のご加護をもって、この危難を払いのけてください。
わが身を身代わりとして捧げても構いません。どうか武田の家名を絶やさず、夫・勝頼の運勢を開き、長久の繁栄を叶えてください。
もしこの願いが叶うならば、たとえこの命が露と消えても悔いはありません。」

わずか19歳の夫人が綴った、夫を想う悲切な祈り。北条夫人は実家に戻ることができたと思います。勝頼もそれを望んでいたかもしれません。しかし、彼女は最後まで夫、勝頼の側にいることを選びました。
本殿は、国の重要文化財に指定されている歴史的に非常に貴重な建造物です。現在の本殿は、天文10年(1541年)に武田信虎・信玄(晴信)父子によって再建されたものです。

【武田八幡宮の現地レポート】空気感
武田八幡宮を訪れてまず感じたのは、他を寄せ付けないほどの「静寂」と、武田氏の氏神としての圧倒的な「気品」でした。

鬱蒼と茂る木々に囲まれた境内は、時が止まったかのように静かです。しかし、その静けさはただ寂しいのではなく、重厚な歴史が守り続けられてきた凛とした強さを持っています。
信玄公が再建した本殿の細工や、北条夫人が願文に込めた家族への慈愛。それらを受け止めてきたこの場所には、滅亡の悲劇すらも一つの気高い物語に変えてしまうような、不思議な力が宿っている気がしました。
「本殿をあとにし、再びハンドルを握って新府を離れます。 視界に広がる甲府盆地の景色は、あの日、勝頼公や夫人が涙を飲んで見つめた風景そのものです。
これから向かうのは、一行が最後に新府を振り返り、袖を振って別れを告げたという『袖振山(涙の森)』。 武田八幡宮で触れた、あの凛とした気品を胸に、私は彼女たちが流した『涙の跡』を辿るドライブを続けます。」
Drive Tip: 新府城跡から武田八幡宮へは、車で約20分。石段を登った先に現れる本殿は、武田信玄公によって再建された貴重な建造物です。本殿は重要文化財です。
涙の伝承を辿る:甲州市「涙の森」と「泣石」
新府城を出た一行は、わずか500名から600名程度。その多くは武士だけでなく、行く当てのない女性や子供、非戦闘員が半数近くを占めていたといいます。 守るべき者が多く、戦う力は削がれていく。その絶望的な行軍のなかで、最初に失われたのは「人の心」でした。
涙の森
ここは、自ら火を放ち、赤く燃え落ちる新府城を振り返り、勝頼公や侍女たちが袖を振って別れを惜しみ、涙を流したと伝わる場所です。

新府城を出発した際、北条夫人や侍女たちのために、わずかばかりの輿(こし)や駕籠(かご)が用意されていました。しかし、既に駕籠を担ぐ人足たちは逃げ出していたのです。

主君への忠義よりも、己の命が優先される戦乱のリアル。担ぎ手がいなくなった空の駕籠をあとにし、この地点ですでに、北条夫人は自らの足で歩き始めていたのかもしれません。
気品に満ちた姫君が、一歩一歩、険しい山道にその足跡を刻んでいく。 「涙の森」という名前には、城への別れだけでなく、信じていた人々に背を向けられた「人の世の無常」への涙も含まれているような気がしてなりません。
泣石
道端にひっそりと佇む「泣石」。

慣れない山道、迫りくる追手の恐怖、そして燃える新府城への未練。 疲労と絶望が限界に達し、思わずその場に膝から崩れ落ち、縋り付くようにして泣いた場所。それがこの石だったのではないでしょうか。
当時の逃避行が「休息」などという言葉では片付けられない、いかに過酷で、余裕のないものだったかを無言で伝えている気がします。
泥にまみれ、あるいは裸足であったかもしれない彼女の足跡。その痛みに思いを馳せるとき、道端の何気ない石は、単なる伝承の地を超え、一人の女性が命を懸けて愛し抜いた証(あかし)として、私たちの心に深く刻まれます。
国宝の古刹「大善寺」
勝沼IC近くにある柏尾山 大善寺は、逃避行のクライマックスとなる場所です。

新府城に火を放った3月3日。桃の節句という華やかな日とは裏腹に、北条夫人は泥にまみれ、着の身着のままで城を後にし大善寺にやってきました。
「大善寺で一行を出迎えた尼僧・理慶尼は、その眼前に現れた光景に言葉を失ったといいます。 そこにいたのは、かつて甲斐の国を統べた武田の正室の姿ではありませんでした。
『理慶尼記』には、泥に汚れ、髪を振り乱し、腫れ上がった足を引きずる夫人の痛々しい姿が記されています。新府城を出てから数日間、雪の山道を彷徨(ほうこう)し、信じていた人々に背を向けられ続けた果ての姿。
泥を落とし、わずかな休息を得た彼女が、大善寺の薬師如来の前で何を祈ったのか。 その答えは、記録にはありません。しかし、彼女のボロボロになった足跡が、何よりも強く、夫への愛を語っています。」
勝頼一行はここで一夜を明かしました。大善寺を出た後、頼みにしていた小山田信茂の裏切りを知り、一行の絶望は決定的となります。

- 見どころ: 関東最古といわれる国宝の本堂(薬師堂)。
- お土産: 大善寺は自社醸造のワインでも有名です。歴史に思いを馳せながら、自分へのお土産に1本いかがでしょうか。

大サイズの白ワインをクレジットカードで購入しました。お寺でクレジットカードが利用できるとは思っていなかったので驚きました。ワインはとても美味しかったです。
終焉の地:天目山「景徳院」
国道20号から日川(ひかわ)沿いの険しい山道へと入り、辿り着いたのは『天目山 景徳院』。
数日間の逃走過程でさらに脱落・逃亡が相次ぎ、11日の天目山(田野)で最期を迎えた時は、約40〜80名まで減っていました。北条夫人を筆頭に10〜20名は女性でした。

本来の目的地は「天目山 栖雲寺(せいうんじ)」でした。栖雲寺は武田氏の先祖(武田信満)がかつて自害した場所であり、武田家にとっては「最期の聖地」のような場所でした。また、山深い要害の地でもあったため、そこに籠もって一矢報いようと考えたのです。結局、入山することはかないませんでした。裏切り者たちが立ちはだかりました。
もはや戦ができるような状態ではありませんでした。勝頼に従った忠臣たちは勝頼公、北条夫人、信勝公が、武士の誇りを持って自害するための「時間」を作ることでした。

押し寄せる数千の織田軍に対し、勝頼公を守るために残った家臣はわずか数十名。 土屋昌恒が片手で岩を掴み、血の海の中で道を塞ぎ続けたのは、ただ愛する主君に『最期の誇り』を全うさせる時間を作るためでした。これが、忠臣・土屋昌恒(土屋惣蔵)の「片手斬り」です。
家臣たちが次々と討ち死にしていく中、その背後(現在の景徳院の境内のあたり)で、勝頼公たちは最期の準備を整えていました。家臣たちが稼いでくれたその「数十分」というわずかな時間が、北条夫人が辞世の句を詠み、勝頼公が愛する家族と共に旅立つための、最後の慈悲となったのです。

最愛の妻と、期待の跡継ぎ信勝。二人の最期を見届けた後、勝頼公はついに自らの腹を切りました。
新府城を出てから始まった逃避行。笹子峠での裏切りに遭い、雪の山中を彷徨った一行。天正10年(1582年)3月11日巳刻(午前10時頃)、戦いは終わり、武田宗家は滅亡しました。

徳川家康公が建立させたというこの寺の静寂は、滅びゆく名門に対する、かつての敵対者のせめてもの敬意であったのかもしれません。 境内の木々が揺れる音を聞いていると、裏切りと絶望の果てにようやく手に入れた、悲しいほどに穏やかな安らぎを感じずにはいられません。
まとめ:武田勝頼の歩みを辿って
武田勝頼の最期を辿る旅は、正直に言って、裏切りや離反といった重苦しい言葉ばかりがつきまとう、気の重い逃走劇の記録です。けれど、その泥濘(でいねい)の道を一歩ずつ辿っていくと、別の景色が見えてきます。
それは、19歳の北条夫人が見せた「ただ一人の妻」としての覚悟であり、最後まで勝頼の傍らを離れなかった数少ない家臣たちの、意地にも似た忠誠心でした。
新府城を焼き、岩殿城への道を絶たれ、雪の山中を彷徨う。裸足に近い姿で泥にまみれ、絶望の淵を歩きながらも、彼女たちの魂だけは決して汚されることはありませんでした。笹子峠に響いた裏切りの銃声は、武田の歴史を終わらせる非情な合図でしたが、同時に、誰にも壊せなかった「家族の絆」を証明する、哀しくも気高い余韻のようにも聞こえてきます。
華やかな戦国絵巻の裏側に隠された、一人の人間としての勝頼の苦悩。 そして、彼を支え続けた人々の、嘘のない温もり。
教科書を閉じて、ただ静かに車を走らせてみる。 そうして辿り着いた城跡の静寂の中に、かつて誰かが確かに生きた証が隠れている。 そんな気がして、またハンドルを握りたくなります。




