【鳥取城訪問記】「渇え殺し」が突きつける歴史の真実|砂丘の喧騒と久松山の静寂、2025年城納めの旅

鳥取城と巻石垣 城旅
鳥取城と巻石垣

2025年12月27日から始まった、岡山(岡山城備中松山城)・島根(松江城)・鳥取を巡る3県跨ぎの旅。その終着地は因幡の巨城・鳥取城でした。 実は今回の旅、信じられないようなミスから幕を開けたのです。

【鳥取城】靴の履き違えから始まった、忘れられない2025年城納めの旅

左右の靴を履き違えて

旅の朝。始発の在来線に乗って2駅過ぎた頃、ふと足元を見て凍りつきました。 「……左右の靴が違う」 同色だったので一見目立ちませんが、明らかに履き心地が違います。初めての3県遠征を前に、無意識に緊張していたのかもしれません。しかし、家に戻れば新幹線には間に合わない。私はそのまま旅を続ける決断をしました。

岡山駅で買い直すことも考えましたが、あえてこの「ちぐはぐな足元」のまま、初めての土地を歩き通すことにしたのです。

新幹線の隣席の会話

道中、印象的な出会いがいくつもありました。 広島行きの新幹線では、実家へ婚約の挨拶に向かう若いカップルの幸せそうな会話が自然と耳に届き、心の中でお祝いを述べました。

2025年12月30日、因幡の巨城へのプロローグ

2025年12月30日。岡山、松江を経て辿り着いた、今年最後の訪問地。それはかつて織田・豊臣連合軍と毛利家が、時代の覇権をかけて対峙した因幡の巨城「鳥取城」です。

初めての鳥取駅
初めての鳥取駅

前夜、島根県の出雲大社から列車に揺られて鳥取入りした私は、初めて踏む鳥取の地で、一つの旅の流儀を実践することにしました。

旅の最適解は「観光案内所」にあり

鳥取城と砂丘へ行くことは決めていても、具体的な移動手段までは決め込まない。なぜなら、駅にはその土地を熟知したプロが集う「観光案内所」があるからです。

昨今はAIや検索で何でも調べられる時代ですが、現地のライブ感を知る案内所を利用しない手はありません。駅のロッカーにスーツケースを預け、私は迷わず窓口へ向かいました。

「コスパ重視で鳥取城と砂丘を回りたいのですが」

そんな相談に対し、返ってきたのは実に見事な最適解でした。 「まずは砂丘から回ってください。砂丘行きのバスは本数が限られています。一方で鳥取城へは、20分間隔で走る100円循環バス『くる梨(くるり)』があるので、後回しにしても困ることはありませんよ」

砂丘から鳥取城へ向かうバスの時刻も案内して頂きました。これらのアドバイスがなければ、私は冬の限られた日照時間を無駄にしていたかもしれません。

【実用データ】鳥取駅からの鳥取城・砂丘へのアクセス

今回の旅で観光案内所に教わった、もっともコスパ良く効率的なルートをまとめました。

  • 鳥取駅からの移動
    • 鳥取砂丘へ: 鳥取駅バスターミナル(0番のりば)から「39 鳥取砂丘線」で約20分。
      • ※注意:年末年始などの繁忙期は大変混雑します。また、運賃は現金のみ(ICカード不可)ですので、小銭の準備をお忘れなく。
  • 鳥取城(久松山)へ: 鳥取駅バスターミナル(0番のりば)から、100円循環バス「くる梨(赤コース)」に乗車。約8分、「西町」バス停下車徒歩5分。
    • ※20分間隔で運行しているので、時間を気にせず観光できるのが魅力です。
  • 砂丘から鳥取城への乗り継ぎ
    • 砂丘から駅へ戻るバスの途中、「県庁前」や「西町」で下車すれば、そのまま鳥取城へアクセス可能です。観光案内所で時刻表をセットでもらっておくのが最適解です。

満員バスに揺られ、冬の砂丘へ

案内所の助言に従い、まずは39鳥取砂丘線のバスへ乗り込みます。しかし、12月30日の車内は座る隙もないほどの「満員」状態。39鳥取砂丘線のバスはICカードが利用できず現金払いのみという点も、年末の混雑に拍車をかけ、車内の熱気を一段と引き上げていたのかもしれません。

年末特有の熱気のなか、揺られること約20分。ようやく辿り着いた先には、日本海を臨む広大な砂の世界が待っていました。

「砂丘って、こんなに人を惹きつける場所だったのか……」

馬の背と日本海
馬の背と日本海

砂丘は、高い砂の丘「馬の背」を目指す観光客の行列で賑わっていました。一見、歴史とは無縁の観光地に思えますが、城歩きを趣味とする者の視線は、つい久松山(鳥取城)の方角へ向いてしまいます。

馬の背
馬の背

この広大な砂の周辺こそ、かつて秀吉が鳥取城を包囲するために数万の軍勢を布陣させた場所。現代の「平和な混雑」である満員バスや砂丘の行列を眺めながら、私はかつてこの地を埋め尽くした軍勢の威圧感と、城内に閉じ込められた人々の絶望的な「孤立」に思いを馳せずにはいられませんでした。

砂丘の喧騒を離れ、次はいよいよ旅の真の目的地、静寂に包まれた鳥取城へと向かいます。

鳥取城の遺構:白亜の「巻石垣」と、山城が語るリアリズム

砂丘の喧騒から離れ、久松山の麓に立つと、空気は一変します。 ここで見逃せないのが、全国でも極めて珍しい球体状の石垣「巻石垣(まきいしがき)」です。

巻石垣
巻石垣
  • 見どころ: 崩落を防ぐための「人工の曲線」は、砂丘の砂が描く「自然の曲線」とは対照的な、人間の知恵と執念を感じさせます。

また、11月に訪れた八王子城との共通点も強く感じました。 麓の居館と山頂の詰城という二面性。そして、圧倒的な物量を誇る豊臣の軍勢を前に、籠城の末に落城という運命を辿ったこと。八王子城の静かな森と、この鳥取城の鋭い石垣が、私の中で一つの線で繋がりました。

歴史考察:凄惨な結末の裏にある「戦略の不在」と「兵糧のリアル」

この記事を公開するまでに、訪問からひと月以上の時間を要してしまいました。理由は、現在放送中の2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』にあります。2月1日時点で第4話まで鑑賞しましたが、秀吉・秀長兄弟の魅力にすっかり虜になってしまいました。

世に語られる「第二次鳥取城の戦い」は、人肉食といったセンセーショナルな側面ばかりが強調され、織田信長や豊臣兄弟のイメージが悪化するばかりです。

以前、第二次鳥取城の兵糧攻めの記事を書きました。これは一般的に流布している言説(げんせつ)です。

彼らは本当に、ただ残虐な地獄を望んだのか?

そんな疑問を解くべく、鳥取県発行の資料などを精査して見えてきた「真実の断片」を整理します。


籠城側の深刻な兵糧不足(1581年1月〜)

鳥取城は1581年6月の開戦前から、すでに致命的な備蓄不足に陥っていました。守将・吉川経家は同年1月の段階でこの危機を把握しており、本国へ兵糧を求める書状を送っています。地獄の火種は、包囲される前から城内にあったのです。

幻に終わった「信長の出陣計画」

鳥取城近くの巨大な陣城「太閤ヶ平(たいこうがなる)」は、信長のための「御座所」でした。当初は信長も出陣する予定でした。ところが、信長は「毛利軍の援軍が来た場合に出陣する」と方針を転換します。

恐らく一気に決戦を挑む計画を立てていたのでしょう。

秀吉も信長到着後は別の城(鹿野城)へ陣替えし、東伯耆に備える予定でしたが、毛利本隊が後詰(救援)に現れなかったため、この壮大な出陣計画は幻となりました。

「買い占め伝説」への疑問――毛利の失策を隠す物語か

『陰徳太平記』にある「秀吉の米買い占め」説。しかし、当時の因幡国内は織田方の諸城を含め、全域で深刻な兵糧不足に陥っていました。国内での調達は、織田・毛利双方にとって極めて困難な状況でした。

毛利軍の「マネジメントミス」の隠蔽

吉川経家は入城直後から窮状を訴えていました。つまり、戦が始まる前から兵糧管理は破綻していたのです。毛利寄りの視点で書かれた『陰徳太平記』が、この敗北を「秀吉の卑劣な商法」のせいにしたのは、本来追求されるべき「毛利・吉川方の兵糧管理の甘さ」という不名誉を覆い隠すためのレトリックだったのではないでしょうか。

創作が生んだ「悪役」の虚像

「秀吉が悪知恵で人々を飢えさせた」という構図はキャッチーですが、現実はもっと泥臭い「地域全体の食糧危機」の中での奪い合いでした。勝敗は、包囲される前の「準備段階」で決していたのでしょう。

豊臣兄弟の誤算――「地獄」は想定外のスピードで訪れた

戦国時代の籠城戦において、城側は味噌、干飯、梅干しなどの保存食を核とし、最低でも半年分以上の米を備蓄するのが常識です。鳥取城は11月には雪が降る厳しい寒冷地にありました。吉川経家の基本戦略はシンプルかつ現実的でした。

「冬が来るまで耐え抜けば、雪に閉ざされた秀吉軍は退却せざるを得ない」

半年分の兵糧さえあれば、この物語は「経家の粘り勝ち」で終わっていた可能性すらあったのです。

豊臣兄弟にとっての「計算違い」

しかし、現実は凄惨でした。7月下旬、開戦からわずか1ヶ月ほどで、城内はすでに限界を迎えていました。ここには豊臣兄弟にとっても、二つの大きな「誤算」があったのではないでしょうか。

  1. 「備蓄ゼロ」という異常事態: まさか天下の毛利家が、これほどの巨城にわずかな兵糧しか用意していないとは、合理的・近代的な軍事感覚を持つ秀吉・秀長兄弟には想像もつかない「管理不全」だったはずです。
  2. 来ない後詰(援軍): 信長が「囮」として期待し、兄弟が「決戦」を想定して待ち構えていた毛利本隊は、ついに現れませんでした。

考察のまとめ:地獄は「目的」ではなく「結果」だった

第二次鳥取城の戦いと同じ年に行われた高天神城の戦いでは信長は武田方の降伏を許しませんでした。城兵や捕虜たちを皆殺しにしました。それに引き換え、鳥取城での対応は対照的です。信長や秀吉は経家の命を助けようとし、開城後には即座に城兵たちに「炊き出し」を行いました。

「地獄」を作ることが目的だったならば、降伏を許さず城主や城兵たちの命を助けようとしなかったでしょう。

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる彼らの姿も、単なる残虐な勝者ではなく、不確実な現場で最適解を求め続けた「実務家」としての姿であることを期待しています。

2026年、リベンジの空へ

30日に鳥取砂丘コナン空港へ向かうバスで、お隣の女性と会話が弾みました。「羽田から搭乗した娘の飛行機が遅れているの」というお話から始まり、話は私が巡ってきた国宝五天守や鳥取城の話へ。

そこで、今回リベンジを誓うことになった「久松山(山上ノ丸)」の話題になりました。

山上ノ丸への登山口
山上ノ丸への登山口

実は今回、私は山上の丸(山頂)への登城を断念しました。 4日連続の城巡りで体力も限界に近く、11月に訪れた八王子城クラスの登山は厳しいと判断したこと。そして、降り出した雨。

何より背中を押したのは、入り口の看板でした。「黒い物体(熊)の目撃情報」——。 しかし、バスでお会いした女性は「年に2回は登るけれど、被害の話は聞いたことがないわよ」と笑い、実際の登山口では、ラフな格好で登っていく若者や、駆け足で降りてくる初老の男性の姿がありました。

久松山の山頂
久松山の山頂

久松山は、地元の方々にとっての「日常の道」だったのです。

中ノ御門と巻石垣
中ノ御門と巻石垣

結局、今回は「巻石垣」をはじめとする麓の遺構をじっくりと堪能するに留めました。 熊への警戒と、連日の強行軍で疲れ切った足。無理をしないことも、長く城巡りを続けるための「知恵」だと自分に言い聞かせて。

「次回は必ず、熊鈴を身につけてあの山頂へ」

空港へ向かうバスの窓から遠ざかる久松山を仰ぎ見ながら、私は2025年の旅の幕を閉じました。靴の履き違えから始まった旅は、思いがけない出会いと、次なる目標という「お土産」を残してくれました。