「豊臣秀長」という名前を聞いて、何を思い浮かべますか?
多くの方は、豊臣秀吉の優秀な弟、あるいは冷静沈着な政治家・軍師としてのイメージを持つでしょう。彼は、兄の天下統一事業を陰で支え、「もし秀長が生きていれば豊臣政権は安泰だった」とまで評されるほどの名将です。
しかし、そんな彼が大将として唯一、敵に敗走させられたという驚くべき戦いが存在します。それが、現在の兵庫県神戸市北区にあった山城、淡河城(おうごじょう)をめぐる戦いです。
この戦いの勝敗を分けたのは、一見すると滑稽に思える、城主・淡河定範(おうご さだのり)が編み出した驚愕の「牝馬(ひんば)の計(き)」。
今回は、この淡河城の戦いを深掘りし、戦国時代に埋もれた知られざる武将・淡河定範の生涯と、秀長が喫した敗北の真実をご紹介します。
三木合戦の鍵を握った淡河城

淡河城は、鎌倉時代にまで遡る歴史を持つ古い城で、もともとは執権・北条氏の流れを汲む淡河氏の居城でした。戦国時代に入ると、東播磨で勢力を誇った三木城主・別所長治に属します。
三木城兵糧攻めと淡河城
天正6年(1578年)、別所長治が織田信長から離反し、羽柴秀吉は三木城を完全に包囲する「三木の干殺し」と呼ばれる長期の兵糧攻めを開始します。
このとき、淡河城は三木城にとって、城外からの唯一の命綱。地理的に摂津国(大阪方面)に近く、ここを抑えられなければ、城外からの兵糧や物資の補給が続いてしまいます。そのため、秀吉軍は淡河城の攻略を急務としました。
淡河城攻めの大将として派遣されたのが、他ならぬ秀吉の片腕である羽柴秀長(当時は羽柴長秀とも名乗っていました)でした。秀吉軍は淡河城の四方に付城を築き、徹底した包囲網を敷きました。
豊臣秀長を打ち破った「牝馬の計」の衝撃
秀長軍が淡河城に攻め寄せたのは、天正7年(1579年)6月27日のこと。秀長軍は数に勝り、わずか数百の兵しかいない淡河城の落城は時間の問題と見られていました。
【奇策の詳細】淡河定範の緻密な罠
淡河定範は、ただ力で抵抗しても勝ち目がないことを理解し、奇略をもって秀長軍を迎え撃ちました。
- 誘引と攪乱: まず城の周辺、特に進軍ルートには、敵兵の足を鈍らせるための車菱(からくり)や、行く手を阻む逆茂木(さかもぎ)などを設置しました。そして、定範の兵はわざと弱いふりをして城内へ退き、秀長軍を奥へおびき寄せました。
- 牝馬(ひんば)の投入: 当時の戦場における軍馬は、勇猛果敢な去勢されていない牡馬(おすうま)が主流でした。定範は、かねてから近隣の村々から集めていた数十頭の牝馬を、秀長軍の騎馬隊が近づいたタイミングで城門から一斉に放ちました。
- 軍団の大混乱: 敵の騎馬隊の牡馬たちは、突然現れた牝馬の群れに反応し、性的に興奮して制御不能となり、激しく暴れ始めます。
- 騎馬武士たちは次々と馬から振り落とされ、味方の馬に踏みつけられるなど、軍隊として機能しない大混乱状態に陥りました。
- 淡河勢の猛追撃: この異常な混乱を見て、淡河定範の軍勢は城から打って出て追撃をかけました。これにより、秀長軍は多くの戦死者を出し、大将の秀長も指揮権を失い撤退を強いられました。
この戦いは、軍事の天才であった豊臣秀長が、大将として記録上唯一敗走したという、まさかの大敗となったのです。淡河城の戦いは、戦場における勝利は単なる兵力差ではなく、知略と発想の転換がもたらすことを証明しました。
勝利の後の悲劇:淡河定範の最期
奇跡的な勝利を収めた淡河定範ですが、多勢に無勢であり、羽柴軍が再び大軍で攻め寄せることは明白でした。定範は、家臣や一族郎党をまとめ、城に火を放って三木城へと合流します。これは、戦略的には秀長軍に補給路を断たせるという結果になってしまいましたが、定範の最期の覚悟を示すものでした。
その後、淡河氏は、三木城主・別所氏と運命を共にすることになります。定範は三木城合戦の局地戦である大村合戦で討ち死にしたと伝えられています。彼の最期は「死んだふりをして敵を油断させ、近づいた敵兵を討ち倒してから自刃した」という壮絶なものであり、最後まで智勇を尽くした武将として語り継がれています。
【城跡の見どころ】淡河氏へのリスペクト

淡河城は定範の死後、羽柴秀吉の家臣である有馬則頼(ありま のりより)が入城し、近世城郭へと改修されました。しかし、則頼が三田城へ移ると城は役割を終え、元和元年(1615年)の一国一城令で正式に廃城となります。
現在、城跡は淡河城跡市民公園(神戸市北区)として整備され、本丸跡や模擬櫓、堀などの遺構が残されています。
特筆すべきは、城主が有馬氏に代わった後も、本丸近くに淡河氏歴代の墓所がそのまま残されていることです。これは、豊臣秀長軍を一度破った智将として、淡河定範への敬意が払われていた証とも言えるでしょう。
アクセス・所要時間(目安)
「道の駅淡河」は、神戸市北区の山間部に位置しており、公共交通機関でのアクセスは限られます。お車でのアクセスが便利です。
所用時間は30分から40分程度です。
お車でのアクセス
- 最寄りのインターチェンジ: 神戸電鉄(神鉄)粟生線 淡河駅 近く、または山陽自動車道(山陽道)の神戸北ICや三木東ICからアクセスできます。
- 駐車場: ありません。「道の駅淡河」に駐車して登城される方が多いみたいです。

「道の駅淡河」に駐車する方は迷惑にならないようにして下さい。
公共交通機関でのアクセス
- 最寄りの駅: 神戸電鉄(神鉄)粟生線 淡河駅
- 駅からのアクセス:
- タクシー: 淡河駅からタクシーを利用(約10分)。
- 徒歩: 淡河駅から徒歩でアクセスするのは距離があるため、あまり現実的ではありません。
周辺情報
淡河城跡は、現在、淡河城跡市民公園として整備されており、本丸跡などの遺構が残っています。登山道はありますが、訪れる際は歩きやすい服装をお勧めします。
まとめ:淡河城が歴史に残す教訓
- 淡河城の戦いは、豊臣秀長が唯一敗走した戦いとして、戦国史の珍しいエピソードです。
- 勝敗を分けたのは、城主・淡河定範が仕掛けた「牝馬の計」という、馬の習性を利用した奇策でした。
- 戦場における勝利は、兵力だけでなく、知略と発想の転換によってもたらされることを、淡河城の歴史は私たちに教えてくれます。
神戸の自然豊かな場所にある淡河城跡は、歴史ファンにとっては訪れる価値のあるスポットです。知られざる智将・淡河定範と、敗戦を喫した名将・豊臣秀長のドラマに思いを馳せてみませんか?
兵庫県の戦国史、奇策に興味がある方は、ぜひ「淡河城跡」を訪れてみてください!


