教科書で「長篠・設楽原の戦い」といえば、織田信長の鉄砲三段撃ちが有名ですが、その戦いの命運を分けたのは、前哨戦である長篠城の籠城戦に他なりません。
この絶望的な攻防戦で城主を務めたのが、奥平貞昌(おくだいら さだまさ)です。彼は後に徳川家康の娘婿となり、奥平信昌(のぶまさ)と名を改めました。
彼はなぜ、武田氏の大軍に囲まれながら城を死守できたのか?その背景には、「裏切り者」と呼ばれた彼が、命を賭して忠誠を証明せざるを得ない、悲壮な事情がありました。

奥平貞昌は真田昌幸に似てるところもあるので取り上げてみました。

奥平貞昌が長篠城主になるまでの「二度の裏切り」
奥平貞昌は、三河国(現・愛知県東部)の有力な国衆の家に生まれました。彼の生涯は、強力な大名の間で生き残りを図る、苛烈な選択の連続でした。
武田信玄への臣従と徳川家康への再帰参の条件
奥平氏はもともと徳川家康に仕えていましたが、武田信玄が三河・遠江に侵攻した際、その猛攻に抗しきれず、父の奥平貞能(さだよし)と共に武田氏の傘下に入ります。
しかし、元亀4年(1573年)に信玄が急死すると、家康は奥平氏を再び自陣営へ引き戻す好機と見ました。
家康は貞昌に対し、武田方から離反し徳川氏に帰参する条件として、自分の娘である亀姫を正室に迎えるという破格の約束を提示します。これを受け入れた貞昌は、武田氏から奪還したばかりの要衝、長篠城主に任命されます。
逃れられない宿命:人質処刑の悲劇
貞昌が徳川氏に再帰参した際、武田氏には貞昌の妻や幼い弟などが人質として残されていました。
裏切りを知った武田勝頼は激怒し、見せしめとしてこれらの人質を処刑します。貞昌にとって、長篠城を守り抜くことは、家族の死を無駄にしないため、そして徳川氏への忠誠を生涯かけて証明するための、血の滲むような覚悟となりました。
彼にはもはや、武田氏への降伏という「退路」は完全に断たれていたのです。
長篠城籠城戦:500の兵で1万5000を支えた「背水の陣」
貞昌が長篠城主になって間もない天正3年(1575年)5月、武田勝頼は裏切り者を討つため、1万5000(あるいは2万)の大軍を率いて長篠城を包囲しました。
城主・貞昌の指揮と鳥居強右衛門の決死の使者
長篠城は川に囲まれた天然の要害でしたが、籠城する兵はわずか500人。圧倒的な戦力差の中、若き城主・貞昌は決死の覚悟で指揮を執り、籠城戦は膠着します。
兵糧が尽きかけ、城が危機に瀕すると、貞昌は岡崎城の家康へ援軍を要請するため、家臣の鳥居強右衛門(とりい すねえもん)を派遣します。
強右衛門は命がけで包囲網を突破し、援軍の確約を得ますが、帰路で武田軍に捕らえられてしまいます。勝頼は強右衛門を脅迫しますが、彼は城兵に向かって「援軍は必ず来る!」と叫び、磔に処されました。
鳥居強右衛門の壮絶な自己犠牲は、城主・貞昌と全城兵の士気を極限まで高め、「この命を無駄にするな、生き残る道は戦い抜くことのみ」という、文字通りの背水の陣を貫かせました。
長篠・設楽原の戦いの勝因は籠城にあり
奥平軍の決死の籠城が、武田軍の足を十日以上釘付けにした結果、織田信長・徳川家康の連合軍が設楽原へ到着する時間稼ぎに成功しました。この籠城戦こそが、その後の設楽原の戦いで連合軍が勝利を収める最大の要因となったのです。
功績の報酬:「信昌」への改名と徳川家康の娘婿
長篠・設楽原の戦い後、貞昌が挙げた功績は家康と信長の両名から大いに賞賛されました。
- 「信」の一字拝領: 貞昌は、織田信長から自身の名前の一字である「信」を与えられ、名を奥平信昌と改めました。これは、裏切り者であった貞昌が、信長の天下統一事業における重要な功労者として認められたことを意味します。
- 徳川家康の娘婿に: そして、約束通り徳川家康の長女・亀姫を正室に迎え、名実ともに徳川譜代の重臣としての地位を確立しました。この婚姻は、奥平氏が今後二度と徳川氏を裏切らないという強固な誓約を意味しました。
長篠城趾の体験記

武田家滅亡の最大の遠因・決定的な転機となった「長篠・設楽原の戦い」の緒戦、「長篠城攻城戦」。
著者は歴史小説家・新田次郎の「武田信玄」や「武田勝頼」で武田家や戦国時代に興味を持つようになりました。武田家の滅亡を描く「武田勝頼」は読むのが非常に辛かったのを覚えております。
初めての長篠城は想像していたより狭いと感じました。調べてみると、現在史跡として残されている面積は当時の長篠城の全体の約30%〜50%程度とか。
戦国時代に興味がない人からすれば、長篠城趾地はただの原っぱですが、三大英傑(信長・秀吉・家康)を筆頭に大河ドラマの主人公たちが何人も参戦した「長篠・設楽原の戦い」の重要な場所です。「設楽原の戦い」は真田昌幸や明智光秀、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公の豊臣秀長も参戦しています。
様々な人たちの人生を変えた場所にしては、建物や石垣といったものがなく、寂しさを感じますが、間違いなくここは戦国時代の歴史を変えた重要な場所です。
長篠・設楽原の戦い後の徳川家康の奥平貞昌(信昌)に対する別格の待遇が戦国時代の歴史を変えたことの証左だと思われます。
もしも武田勝頼が人質である「貞昌の妻」や「幼い弟」を利用した交渉をしてきた場合、奥平貞昌(信昌)はどう対処したのか。1日、2日早く落城したら「設楽原の戦い」はなかったのか。「長篠・設楽原の戦い」で勝利した晩、信長や家康はこの地に来たのか。色々なことを考えながら歩きました。
長篠・設楽原の戦い後、奥平貞昌(信昌)は家康の長女・亀姫を正室に迎え奥平家は徳川一門に準ずる扱いを受け、武田家は滅亡に向かって行きます。武田ファンとしては長篠城はとても辛い場所です。
長篠城趾の基本情報

| 項目 | 詳細 |
| 名称 | 長篠城趾 |
| 所在地 | 〒441-1634 愛知県新城市長篠市場22ー1 |
| 電話番号 | 長篠城址史跡保存館 0536-32-0162 城跡に関する問い合わせはこちらへ。 |
| 概要 | 1575年の長篠の戦いにおいて、奥平貞昌がわずか500の兵で武田勝頼の約15,000の大軍の猛攻から守り抜いた城跡。豊川と宇連川(寒狭川)の合流地点の断崖上に築かれた天然の要害です。 |
| 営業時間 | 24時間見学自由(史跡保存館は開館時間あり) |
| 見学所要時間 | 長篠城跡の見学所要時間は、平均して1時間から1時間半程度が目安です。 これは、城跡の散策と隣接する資料館(長篠城址史跡保存館)の見学時間を含めた目安です。 |
| 関連施設 | 長篠城址史跡保存館が隣接しており、長篠の戦いや長篠城に関する資料が展示されています。 |
アクセスと所要時間(JR飯田線利用)
長篠城跡へのアクセスは、JR飯田線を利用するのが最も便利です。
電車でのアクセス
| 出発地 | 路線 | 所要時間(乗車時間) |
| 東京・名古屋方面 | 東海道新幹線で豊橋駅へ | – |
| 豊橋駅 | JR飯田線(天竜峡・飯田方面) | 約60分 |
| 最寄り駅 | JR飯田線「長篠城駅」 | – |
| 駅から城跡 | 徒歩約8分 | – |
自動車
長篠城跡へ車でアクセスする場合の情報と所要時間をご案内します。
長篠城跡は高速道路のインターチェンジから比較的近く、アクセスは便利です。
| 項目 | 詳細 |
| 最寄りのIC | 新東名高速道路「新城(しんしろ)IC」 |
| ICからの所要時間 | 約5分 |
| ICからのルート | 新城ICから国道151号線を利用して向かいます。 |
| 駐車場 | 長篠城址史跡保存館に無料駐車場があります。 |
まとめ:奥平信昌が築いたその後の家系と功績
長篠城主として悲壮な覚悟で大任を果たした奥平信昌は、その後も徳川家康の覇業を支え続けました。
彼は、関ヶ原の戦いで活躍し、戦後には江戸幕府の要職である初代京都所司代を務めています。最終的には美濃国加納藩10万石の大名となり、奥平家を明治維新まで続く名家として確立させました。
奥平貞昌(信昌)の生涯は、「裏切り者」の汚名を返上し、命を賭した忠誠によって戦国乱世を生き抜いた、一つのサクセスストーリーとして語り継がれています。

徳川家康のサクセスストーリーでもあるね。


