豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が、後に弟の豊臣秀長らと共に進めた中国地方攻めは、単なる領土拡大戦ではありませんでした。これは、秀吉の独創的な戦略と、その後の天下取りのきっかけを作った歴史的な大転換点となった重要な戦役です。
この記事では、天正5年(1577年)から始まった、織田信長の命による対毛利氏戦の全容を解説します。
豊臣兄弟の「中国攻め」の概要と目的
中国攻めの開始と目的
豊臣兄弟の中国攻めは、主君である織田信長が推進する天下統一事業の一環として命じられました。当時の西日本では、毛利輝元を中心とする毛利氏が山陰・山陽の広大な領域を支配する西日本最大の勢力であり、信長にとって最大の障害でした。
中国攻めの唯一の目的は、この強大な毛利氏を打倒し、その勢力圏を織田家の支配下に置くことでした。
- 開始時期: 天正5年(1577年)頃
- 終結時期: 天正10年(1582年)6月(本能寺の変による中断)
- 戦場: 播磨、但馬、因幡、備前、備中などの諸国
- 主導者: 羽柴秀吉、羽柴秀長、黒田官兵衛など
豊臣兄弟と主要人物の役割
「豊臣兄弟の中国攻め」と呼ばれるように、秀吉の弟である羽柴秀長(後の豊臣秀長)は、この戦役で重要な役割を果たしました。秀長は兄の補佐役として、後方支援や兵站、そして一部戦場の指揮を担い、秀吉の長期戦略を陰から支えました。
また、知略に優れた黒田官兵衛(孝高)は、戦略立案において秀吉を強力にサポートしました。
対する毛利方は、知将として名高い吉川元春と小早川隆景の「両川体制」が強力に抵抗しました。
秀吉の奇策!「三大城攻め」徹底解説
秀吉の中国攻めは、正面からの大規模な野戦を避け、敵の補給路と士気を断つという独創的な戦術が特徴でした。これが後の世に「三大城攻め」と呼ばれる籠城戦です。
三木城の戦い(三木の干し殺し)
- 場所: 播磨国(現 兵庫県)
- 対象: 別所長治
- 戦術:兵糧攻め
- 秀吉は城を徹底的に包囲し、外部からの兵糧の補給路を完全に断ちました。籠城期間が長引くにつれ、城内の兵士や領民は飢餓に苦しみ、ついに城主別所長治は自害し、降伏しました。この残忍な戦術は「三木の干し殺し」として知られています。
鳥取城の戦い(鳥取の飢え殺し)
- 場所: 因幡国(現 鳥取県)
- 対象: 吉川経家
- 戦術:兵糧攻め(事前の米価高騰工作)
- 秀吉は、城攻めを開始する前に、城周辺の米を通常よりもはるかに高値で買い占めました。これにより、毛利氏の援軍として入った城主吉川経家は、大量の兵を城に入れる一方で、必要な兵糧を確保できませんでした。わずか数カ月で飢餓状態に陥り、吉川経家は城兵の命と引き換えに自刃し開城しました。
備中高松城の戦い(水攻め)
- 場所: 備中国(現 岡山県)
- 対象: 清水宗治
- 戦術:水攻め
- 天正10年(1582年)、秀吉は毛利軍の最前線拠点である備中高松城を攻略します。この城が低湿地に立地していることに着目した秀吉は、全長約4kmにも及ぶ巨大な堤防をわずか十数日で築かせ、足守川の水をせき止めました。城は完全に水没し、城主清水宗治は絶体絶命の窮地に追い込まれました。
劇的な結末:本能寺の変と「中国大返し」
秀吉が備中高松城を水攻めにし、毛利氏との最終決戦の直前に差し掛かっていた天正10年6月、歴史を大きく変える事件が起こります。
本能寺の変の発生
主君織田信長が、家臣の明智光秀によって京の本能寺で討たれたのです。
秀吉はこの極秘情報をいち早く察知し、最大の敵であった毛利氏との和睦を急ぎました。秀吉の参謀である黒田官兵衛は、毛利方に信長の死を悟られる前に事を収めるよう進言し、水攻めによって窮地に陥っていた城主清水宗治の自刃を条件に和睦を成立させました。
中国大返し
和睦を済ませた秀吉は、直ちに軍を京へ引き返すという大胆な行動に出ます。わずか10日足らずで約200kmもの距離を強行軍で引き返したこの機動戦は、「中国大返し」と呼ばれます。
この電撃的な帰還により、秀吉は明智光秀を山崎の戦いで破り、信長の後継者としての地位を決定的に確立することになりました。
中国攻めが日本史に与えた影響
豊臣秀吉の中国攻めは、毛利氏という大敵を相手に、戦況に応じて戦略を転換し、奇策を大胆に実行する秀吉の軍事的な才能を世に知らしめました。
そして、本能寺の変という最大の危機を、中国大返しという奇跡的な機動で乗り越え、後の天下人となる豊臣政権の基盤を作る、まさしく日本の歴史の潮目を変えた戦役として位置づけられています。




