【悲劇の戦場】豊臣秀長も参戦!鳥取城「兵糧攻め」の真実と知られざる見どころ

【悲劇の戦場】豊臣秀長も参戦!鳥取城「兵糧攻め」の真実と知られざる見どころ 武将
鳥取城跡

豊臣秀吉の天下統一の過程で、最も陰惨な戦いの一つとして語り継がれるのが、天正9年(1581年)の鳥取城の戦い、通称「鳥取城の兵糧攻め」です。

鳥取城の兵糧攻め(鳥取城の戦い)は、「飢え殺し(人返し)」と呼ばれるほど悲惨な状況となり、数千人が犠牲になったと伝えられています。

食料がなくなった後、籠城者たちは軍馬や草の根を食べ、最終的には人肉にまで手を出す者がいたという記録が残されており、極めて凄惨な状況でした。

この戦いを語る上で欠かせないのが、秀吉の弟であり、彼の最大の理解者であった豊臣秀長(羽柴秀長)の存在です。

この記事では、戦国の悲劇を巻き起こした「兵糧攻め」の背景と、副将として活躍した秀長の具体的な功績に迫ります。さらに、実際に鳥取城跡を訪れた際に絶対に見ておきたい、当時の包囲網の痕跡まで詳しく解説します。

歴史ファンも、これから鳥取を訪れる方も必見です!

【戦国の悲劇】鳥取城「兵糧攻め」とは?

鳥取城跡(久松山)
鳥取城跡(久松山)

鳥取城攻めは、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が織田信長から任された中国攻め(対毛利氏)の一環として行われました。

籠城戦の主役:吉川経家と羽柴秀吉

鳥取城は、もともと因幡(いなば)の豪族山名氏の居城でしたが、この戦いの直前、毛利氏の支援を受けて吉川経家(きっかわ つねいえ)が城主となっていました。

経家は非常に有能な武将でしたが、秀吉は城を力攻めするのではなく、あえて「兵糧攻め(渇え殺し)」という非情な戦術を選択します。

なぜ「兵糧攻め」が行われたのか?(鳥取城の立地と背景)

鳥取城は、城下町を抱え、背後に久松山という天然の要害を持つ堅固な山城でした。力攻めでは多くの犠牲が出ると判断した秀吉は、以下の準備を周到に行いました。

  1. 事前に城下の兵糧を高値で買い占める:城下に兵糧がない状態を作り出しました。
  2. 完璧な包囲網の構築:城の周囲の山々に、いくつもの陣城(付城)を築き、鳥取城を完全に孤立させました。

結果、籠城した兵士だけでなく、城下の住民も巻き込んだ壮絶な飢餓状態となり、わずか3ヶ月で吉川経家は城兵の命と引き換えに降伏・自刃するという悲劇的な結末を迎えました。


豊臣秀長の功績:兵糧攻め成功の立役者

この大規模で緻密な包囲作戦を成功させた立役者の一人が、羽柴秀吉の弟、豊臣秀長(羽柴秀長)です。

秀長は秀吉軍の副将格として、戦いの最前線で重要な役割を果たしました。

秀長が陣を敷いた「大平山」の重要性

鳥取城の包囲網を築く際、秀吉は久松山の東にある本陣山(帝釈山)に本陣「太閤ヶ平」を構えました。

一方、秀長が陣を敷いたのは、鳥取城の北西に位置する大平山(おおなる)の山頂です。

これは、鳥取城への海側からの補給ルートや、北側の逃走ルートを完全に遮断するという、非常に重要な役割を担っていました。この強固な二重の包囲網があったからこそ、兵糧攻めは成功したのです。

但馬攻めから鳥取攻めへ:中国攻め全体での秀長の役割

鳥取城攻めの前年、秀長は但馬国(現在の兵庫県北部)への総大将として出陣し、竹田城などを落として但馬平定を成し遂げています。

秀長は、この但馬方面から進軍してきた部隊を率いて鳥取城攻めに参加しており、この戦いが中国攻めにおける秀吉の最重要拠点確保に大きく貢献したのです。

秀長は、戦上手なだけでなく、秀吉の意図を正確に理解し、緻密な作戦を遂行できる優秀な現場指揮官でした。


【城の見どころ】悲劇の舞台を巡る史跡ハイキング

鳥取城跡(久松山)周辺は、戦国時代の「攻防」を同時に体感できる歴史ファン垂涎のハイキングスポットです。

包囲網の中枢!秀吉本陣「太閤ヶ平(たいこうがなる)」

兵糧攻めの全体を指揮した秀吉の本陣跡です。

  • 見どころ:土塁で囲まれた広い曲輪が残っており、ここから鳥取城(久松山)を一望できます。非常に大規模で、秀吉の周到な準備を感じられます。
  • アクセス:鳥取城跡から東側の山道を登ります(約1時間)。

【秀長ゆかりの地】羽柴秀長陣跡(大平山)

秀長が指揮を執った陣城の跡です。

  • 見どころ:現在も土塁や竪堀(たてぼり)の遺構が残されており、当時の緊迫した包囲網の一角を肌で感じることができます。
  • 歴史的意味:「太閤ヶ平」と合わせて訪れることで、当時の包囲網の完璧さを理解できます。
    • ※登山道は整備されていない箇所があるため、訪問の際は十分ご注意ください。

鳥取城跡(久松山):久松山に残る戦国山城の遺構

久松山の山頂は籠城した側の視点に立てる場所です。

久松山 山頂
久松山 山頂
  • 山頂(本丸跡):ここから見下ろす秀吉軍の陣城群は、当時の絶望的な状況を想像させます。
  • 二ノ丸・中ノ御門:江戸時代に池田氏が整備した壮麗な石垣が見事です。戦国山城の遺構と、近世城郭の姿の両方が楽しめるのが鳥取城跡の魅力です。
西坂下御門
西坂下御門
  • 西坂下御門:二ノ丸・三ノ丸エリアの仕切門であり、ここをくぐることで山上の丸への登城路が始まる、重要な入り口となっている西坂下御門は長らく唯一現存した城門(高麗門形式)の復元であり、貴重な建造物です。
球面石垣
球面石垣
  • 球面石垣:石垣の角が一般的な直角ではなく、丸みを帯びたドーム状(球面)になっている、全国的にも稀な特殊な形状です。慶長年間(16世紀末~17世紀初頭)に城主となった池田長吉らによって、山上の丸(本丸)を中心に導入されました。
三階層櫓跡
三階層櫓跡
  • 三階層櫓:麓の二ノ丸エリアに建っていた最大の櫓で、城下や御殿を守る核心的な防御拠点でした。建物は現存しないものの、非常に高く堅固な石垣の櫓台が残っており、当時の櫓の壮大さを想像できます。

鳥取城跡と関連史跡へのアクセス・見学情報

鳥取城跡は、久松山(きゅうしょうざん)全体に広がる広大な史跡です。麓の「二ノ丸・三ノ丸」エリアは整備された公園ですが、山上の「本丸」や「陣城跡」を巡るにはハイキングの準備が必要です。

鳥取城跡(久松山)の基本情報

項目詳細
名称鳥取城跡(久松公園)
住所〒680-0005 鳥取県鳥取市東町
開館時間24時間営業(史跡公園)
料金無料
アクセスJR鳥取駅より徒歩約20分、または「くる梨(赤コース)」バスで「鳥取県庁」下車すぐ。
見学時間の目安麓の史跡のみ:約1時間 / 山上(本丸)まで:往復約1.5時間

秀吉・秀長ゆかりの陣城跡へのアクセス

秀吉の本陣「太閤ヶ平」と秀長の陣跡「羽柴秀長陣」は、鳥取城跡から続く山稜上に位置しています。

史跡名歴史的役割見学時間の目安登山情報
太閤ヶ平(たいこうがなる)秀吉の本陣。包囲網の中枢。鳥取城山頂から往復で約2〜3時間登山道は整備されていますが、起伏があり本格的なハイキング装備推奨。
羽柴秀長陣跡(大平山)秀長が指揮した陣城。包囲網の最前線。太閤ヶ平からさらに約30分一部の道は整備が十分でない可能性があります。地図とコンパス(またはGPS)が必要です。

【重要】陣城跡巡りの注意点 「鳥取城攻め大防御ライン」と呼ばれる陣城群は、山稜伝いに続いています。全てを巡るには5時間以上かかる本格的なコースとなるため、体力と時間に余裕を持って臨んでください。

関連施設:鳥取市歴史博物館(やまびこ館)

登山前に立ち寄ることで、鳥取城攻めの全体像や、秀吉・吉川経家らの布陣図などを確認でき、より深く史跡を楽しめます。

項目詳細
名称鳥取市歴史博物館(やまびこ館)
住所〒680-0015 鳥取県鳥取市上町88
アクセス鳥取城跡から徒歩圏内

結び

豊臣秀長が副将として活躍した鳥取城の兵糧攻めは、勝利の裏に大きな悲劇を伴った戦いでした。

鳥取城跡と周囲の陣城跡を巡ることは、単なる観光ではなく、戦国の歴史に深く触れる体験となるでしょう。ぜひ、秀長や吉川経家といった武将たちの思いに馳せながら、この地を訪れてみてください。