【二俣城の悲劇】松平信康はなぜ切腹したのか? 通説「信長命令」と新説「家康の非情な決断」

【二俣城】の悲劇 松平信康はなぜ切腹したのか?通説と新説 ミステリー
静岡県浜松市の二俣城跡

二俣城に散った悲劇の嫡男、松平信康

戦国時代、天下統一を目指す徳川家康にとって、最大の試練となった出来事があります。それが、嫡男・松平信康(まつだいら のぶやす)と正室・築山殿(瀬名姫)の処断です。

特に、21歳の信康が二俣城(現在の静岡県浜松市)で切腹を命じられた「信康事件」は、家康の冷徹な一面を示すものとして、長らく語り継がれてきました。

なぜ、家康は自らの優秀な跡取り息子を殺さなければならなかったのか? この記事では、古くから伝わる通説と、近年注目を集める新説を比較し、悲劇の真相に迫ります。

通説:すべては織田信長の命令だった

長く歴史の通説とされてきたのは、「織田信長の強要によるもの」という説です。

この説の根拠とされるのが、信康の正室である五徳(ごとく。信長の娘)が、父・信長に送ったとされる「十二ヶ条の訴状」です。

城マニア
城マニア

十二ヶ条の訴状は現存していない。後世の創作の可能性がある。

訴状が実在しない、あるいは信憑性が低いとされることが、新説(家康の非情な決断説)が注目される大きな理由の一つとなっています。

通説の主な主張

  1. 五徳の告発 信康と五徳の夫婦仲は悪く、信康やその母・築山殿(瀬名姫)が、敵対する武田家と内通している疑惑や、信康の粗暴な振る舞いを、五徳が父・信長に訴えました。
  2. 信長の強要 訴状を受け取った信長は激怒し、家康に対し、重臣・酒井忠次を通じて、信康と築山殿を処断するよう厳しく命令しました。
  3. 家康の苦渋の決断 家康は、織田家との同盟維持(清須同盟)という大義のため、泣く泣く信長の命令に従いました。優秀な嫡男を失うことは、家康にとって断腸の思いだったとされます。

この通説は、家康がやむを得ず我が子を殺したという構図を描くことで、後世の徳川家にとって都合の良い解釈として定着しました。

新説:家康自身による「非情な決断」

近年、一次史料の検証や当時の政治情勢の分析が進む中で、この通説を覆す新しい解釈が提唱されています。

新説が指摘するのは、「信康の処断は家康自身の意思であり、家中の権力闘争が原因だった」という点です。

新説の主な主張

  1. 政治路線の対立 当時の家康は、織田家に従属し武田氏との徹底抗戦を続ける路線でした。一方、岡崎城を任されていた信康は、武田氏との和睦や関係改善を主張するなど、父と異なる政治路線を志向していたとされます。
  2. 家中の派閥抗争 徳川家中には、家康のいる浜松衆(酒井忠次ら)と、信康を担ぐ岡崎衆の間で激しい派閥対立がありました。信康の処断は、この反家康勢力(岡崎衆)を排除し、家中の一枚岩体制を確立するための内政的粛清であった可能性が指摘されています。
  3. 粗暴説の否定 信康の「残忍な性格」や「粗暴な振る舞い」といった逸話は、家康が我が子を殺した事実を正当化するため、後世の徳川幕府の御用史家が作り上げたものである可能性が高いとされています。

この新説では、家康は織田家からの命令を待つまでもなく、自身の権力と徳川家の将来を守るため、非情な主君として息子を排除したという厳しい見方がされています。

城マニア
城マニア

家康にとっては通説の方が都合が良いみたいだ。

筆者は新説に傾斜してます。

徳川家康と築山殿(瀬名姫)の冷め切った夫婦関係が影響?

徳川家康と築山殿(瀬名姫)の冷め切った夫婦関係が信康事件の遠因となった可能性が指摘されています。

政略結婚による立場の違い

  • 二人の結婚(1557年)は、今川義元の意向による政略結婚でした。
  • 築山殿は、今川家の重臣・関口氏の娘であり、今川義元の姪(または親戚筋)にあたる格式の高い姫でした。
  • 一方、家康(当時は松平元康)は、駿府での今川家の人質という立場でした。築山殿が家康を格下に見たり、傲慢な態度をとったりしたため、家康が我慢を強いられる日々が続いたとされます。

桶狭間の戦いと別居生活

  • 1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、家康は今川家から独立し、織田信長と同盟を結びます。
  • これにより、築山殿は敵対する今川方の縁者という立場になり、岡崎城近くの「築山」に設けられた屋敷で生活することになります。これが「築山殿」の名の由来です。
  • 家康は本拠地を岡崎から浜松に移した後も、築山殿は岡崎に残され、長期間の別居状態が続きました。物理的な距離と、政治的な立場の変化が、夫婦仲の修復を不可能にしたと見られています。

側室の存在と嫉妬心

  • 夫婦仲が冷め切った反動か、家康は多くの側室を抱えるようになります。
  • 史料によっては、築山殿が家康の側室やその侍女に対して嫉妬深く、激しく対立したという記述も見られます。特に家康が側室との間に子をなした際、築山殿が強い怒りを示したという逸話も残されています。

信康事件への影響

夫婦仲の不和は、結果として信康事件の遠因となった可能性が指摘されています。

  • 五徳との関係:築山殿が家康の側室との間に生まれた子を妊娠した女性を退去させるなど、家康の子女の扱いに権限を行使し、それが嫁である五徳(織田信長の娘)との嫁姑の対立を深めました。
  • 夫婦の離反:家康と築山殿が長期間別居し、心が離れていたことで、築山殿が信康を溺愛し、独自の行動(武田家との内通疑惑を含む)をとりやすくなったとも考えられます。

これらの要因が複合的に絡み合い、最終的に夫婦とその嫡男の悲劇的な結末へと繋がったとされています。

城マニア
城マニア

夫婦円満ならば信康の切腹はなかったのではないか。

徳川家康の「思い」とは?

通説であれ新説であれ、家康が優秀な嫡男を失ったことに変わりはありません。彼の心境は、複雑なものだったと推測されます。

視点通説(信長命令説)の家康の思い新説(非情な決断説)の家康の思い
父として息子を救えない無念と、生涯にわたる後悔。苦悩しつつも、家と己の未来のために感情を殺した覚悟。
主君として同盟維持のため、屈辱に耐えて非情を貫く。家中の動揺を収め、徳川家存続という大局を選んだ責任感。

家康はその後、関ヶ原の戦いを経て天下を統一しますが、もし信康が生きていたら、徳川家の歴史は大きく変わっていたかもしれません。二俣城で下された一つの決断が、後の「戦国の終焉」の礎となったことは確かです。

松平信康事件の際、亀姫はすでに父家康の重臣である奥平信昌に嫁いでいました。事件における唯一の救い、あるいは不幸中の幸いとして、娘である亀姫が平穏で幸せな人生を歩めたことです。

二俣城跡へのアクセス

二俣城跡の所在地は、〒431-3314 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣です。

1. 公共交通機関(電車)を利用する場合

  • 天竜浜名湖鉄道(天浜線)
    • 最寄り駅:二俣本町駅
    • 二俣本町駅から城跡の入口(麓)までは、徒歩約10分です。
    • 城跡の山を登り、本丸まで行くにはさらに時間がかかります。

2. 車(マイカー)を利用する場合

  • 高速道路からのアクセス
    • 新東名高速道路:浜松浜北ICから国道152号線を経由し、約10分程度。
    • 東名高速道路:浜松ICから国道152号線へ。
  • 駐車場
    • 二俣城跡の近くに無料駐車場が用意されています(普通車5~6台程度)。
    • 【注意点】 駐車場までの道は比較的狭い箇所があるため、運転にはご注意ください。また、満車の場合は周辺の駐車場を探す必要があります。

見学の所要時間

二俣城跡は、現在城山公園として整備されており、本丸や天守台、堀切などの遺構を見て回ることができます。

二俣城単独での見学時間

  • 平均所要時間:約40分〜1時間未満
    • 多くの訪問者の報告によると、二俣城跡(天守台・本丸・二の丸などの主要部分)のみをじっくり見学した場合、40分から1時間程度で見て回ることが可能です。
    • 麓から本丸までの登り道を含みますが、比較的コンパクトな城跡です。

周辺スポットを含めた推奨ルート

二俣城の歴史的背景を深く理解するためには、以下のスポットとの連携が不可欠です。

二俣城跡の天守台
二俣城跡の天守台
清瀧寺
清瀧寺
スポット所要時間(目安)概要
二俣城跡40分〜1時間本丸、天守台、堀切など主要な遺構を見学。
鳥羽山城跡20分〜30分二俣城と対をなす迎賓館的な城跡。二俣城から歩いてすぐ(約10分)。
清瀧寺20分〜30分徳川家康の嫡男・松平信康公の墓所。
合計約2時間〜3時間歴史を深く学びながら、周辺の主要スポットを巡る場合の目安。