静岡県三島市の箱根路にひっそりと佇む山中城跡。ここは、戦国時代の終わりの壮絶なドラマが刻まれた、中世山城の傑作です。
日本100名城の一つに選ばれ、特に「障子堀(しょうじぼり)」に代表される後北条氏(ごほうじょうし)独特の築城技術を今に伝える貴重な史跡。この記事では、山中城を訪れる際に絶対に見逃せないポイントと、豊臣秀吉との激戦の歴史を詳しくご紹介します。
【必見!】山中城の最大の見どころ:障子堀と畝堀山中城跡が他の城と一線を画す最大の理由、それは土で造られた防御遺構の芸術性にあります。
北条流築城術の粋!「障子堀」とは

障子堀とは、堀の底に土を掘り残して、まるで部屋を区切る「障子」や畑の「畝(うね)」のように、縦横に区画を設けた構造の堀です。
効果: 敵兵が堀に落ちた際に、まっすぐ走ったり、横に逃げたりするのを防ぎます。移動速度を極端に落とし、四方から弓や鉄砲で狙い撃ちしやすくするための、理詰めの防御施設です。
見学ポイント: 城内でも、西ノ丸や西櫓(にしやぐら)の周辺で、特に規模の大きな障子堀を確認できます。深く、整然と並ぶ障子の形は、当時の土木技術の高さと、敵の侵入を許さないという後北条氏の強い意志を感じさせます。

【畝堀(うねぼり)】 障子堀と並ぶ北条流の特徴で、堀底に土を掘り残した畝が、堀の長手方向(横)に連続して並ぶ構造です。城の岱崎出丸(たいざきでまる)などでよく見られます。
絶好の眺望スポット:岱崎出丸(たいざきでまる)

城の最前線に位置する岱崎出丸は、景色を楽しむのに最高のスポットです。
晴れた日には、霊峰・富士山の雄大な姿や、遠く駿河湾まで見渡すことができます。かつてここが箱根路を見下ろす戦略上の要衝であったことを実感できるでしょう。
二ノ丸橋:防御を兼ねた「通路」としての機能

この橋は二ノ丸と元西櫓という異なる防御拠点間の連絡路として機能していました。
堀の深さや、周囲の障子堀・畝堀などの防御施設に囲まれていることを体感できます。
この橋を渡ることで、城の中心部へ入ることは、どれほど困難なことであったかを想像することができます。
防御の工夫が見える「本丸西橋」
本丸と二ノ丸を結んでいた橋の跡です。ここはすべて石や木で造られていたわけではなく、手前は頑丈な土橋(どばし)、奥はいつでも落とせる構造の木橋を組み合わせていました。
これにより、敵が本丸に迫った際には、木橋を落として侵入を阻むという、徹底した防御体制が取られていました。
山中城の歴史:悲劇の半日落城
山中城の歴史は、「難攻不落」と「悲劇的な落城」という二つの側面を持ちます。
小田原防衛の最重要拠点として築城
山中城は、戦国大名・後北条氏によって築かれました。特に、北条氏康・氏政の時代に大規模な改修が行われ、豊臣秀吉との最終決戦に備えるための最重要の防衛拠点として整備されました。
この城の役割は、東海道・箱根路を通って小田原城を目指す敵を、この場所で食い止めることでした。
天正18年(1590年)の激戦:半日の壮絶な終焉
運命の時は、天正18年(1590年)に訪れます。
豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、山中城には豊臣秀次を総大将とする約7万の大軍が押し寄せました。これに対し、城を守る北条方は、城将・松田康長(まつだやすなが)を中心にわずか4,000人。
圧倒的な兵力差に加え、豊臣軍の新式の鉄砲が次々と火を噴き、城を攻撃。北条方は奮戦しましたが、善戦空しく、わずか半日で落城しました。
この戦いは、豊臣氏による全国統一を決定づける重要な戦いの一つとなりました。城将・松田康長らは壮絶な最期を遂げ、山中城の歴史は幕を閉じることになります。
山中城跡へのアクセスと見学情報
山中城跡は現在、国指定の史跡として整備され、歴史公園として公開されています。
- 所在地: 静岡県三島市山中新田
- 料金: 無料
- 見学推奨時間: 1時間〜1時間半
- アクセス(車): 東名高速道路 沼津ICまたは新東名高速道路 長泉沼津ICから約30分。無料駐車場あり。
- アクセス(公共交通機関): JR三島駅から箱根方面行きバスで「山中城跡」下車。
【日本100名城スタンプ情報】 100名城スタンプは、城跡入口付近にある山中城跡公園管理棟、または三島市役所などで押印可能です。訪問前に開館時間を確認しましょう。
山中城跡は、歴史ファンだけでなく、土の遺構の美しさやハイキングを兼ねて訪れる観光客にもおすすめのスポットです。ぜひ、その壮大な歴史ロマンを感じに訪れてみてください。


