【長浜城・大和郡山城・和歌山城】豊臣秀長はなぜ“大和大納言”と呼ばれたのか?〜秀吉の天下統一を支えた名補佐の「城」と「功績」〜

武将
大和郡山城

豊臣秀吉の天下統一の物語を語る上で、決して欠かすことのできない人物がいます。それが、秀吉の異父弟であり、「右腕」として絶大な信頼を寄せられた豊臣秀長(とよとみひでなが)です。

2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で主人公となることが決まり、近年その功績に光が当てられ始めていますが、兄の陰に隠れがちで、その実像はまだ広く知られていないかもしれません。

秀長は単なる武将ではなく、兄・秀吉に代わって戦場を駆け、領国経営に手腕を発揮した名うての城主でもありました。本記事では、秀長が深く関わった三つの重要な城に焦点を当て、彼が大和大納言と呼ばれるに至った背景と、城主としての偉大な功績を詳しく解説します。

豊臣秀長とは?:「小一郎」から大納言へ

豊臣秀長は、兄・秀吉の出世に付き従い、その躍進を陰で支え続けた稀有な存在です。秀吉がまだ足軽組頭だった頃から、共に苦労を分かち合った兄弟として、秀長は「小一郎」の通称で知られ、秀吉にとって最も信頼できる身内でした。

秀長は、戦場では武勇を振るい、特に織田信長の死後の覇権争いでは、羽柴軍の副将として指揮を執り、天下人秀吉の基礎を盤石にしました。

彼の真骨頂は豊臣政権における政治手腕にありました。秀吉の感情的な部分を理性で抑え、各大名間の利害を調整する調整役として機能し、政権運営の安定に大きく貢献したのです。有名な「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)」という言葉は、彼の役割の重要性を示しています。

豊臣秀長はなぜ“大和大納言”と呼ばれたのか?

秀長が最高位に登り詰めたのは、天正13年(1585年)のことです。

この年、秀長は紀州(紀伊国)と和泉国を平定する大功を立て、さらに大和国を加増され、紀伊・和泉・大和の三国、合わせて百万石にも及ぶ大大名へと栄達します。

そして同年、秀吉は朝廷から関白に任じられ、豊臣政権を樹立します。秀長は、この新生政権の中核を担う人物として、朝廷から従二位・権大納言(ごんのだいなごん)という高い官位を与えられました。

これは、豊臣氏が武家としてだけでなく、朝廷の権威を背景とした公儀の政権であることを示すため、最も信頼できる身内を最高位の官職に就ける必要があったからです。秀長は、百万石という領国石高と、大納言という官位を合わせ持つことで、名実ともに秀吉に次ぐ豊臣政権のNo.2としての地位を確立しました。このことから、彼は特に居城とした大和国にちなんで「大和大納言」と称されるようになったのです。

豊臣秀長が出世の道を歩んだ三つの「城」

大和大納言となった秀長が深く関わった城を、その歴史の順に辿ることで、彼の出世と功績の軌跡が見えてきます。

A. 初期を支えた「長浜城」(滋賀県)

長浜城は、浅井氏滅亡後に秀吉が初めて城主として与えられた城です。この頃、秀長は兄の代理として長浜城の城代を務めることが多く、秀吉の代わりに長島一向一揆討伐に出陣するなど、羽柴軍の副将的な役割を果たしていました。

まだ秀吉の基盤が固まらない時期において、秀長が長浜をしっかりと治め、武功を重ねたことが、その後の兄の中国攻めや天下取りの原動力となったと言えます。秀長にとって、長浜城時代は、一人の武将として、そして統治者としての経験を積んだ重要な修業の場でした。

B. 居城・大和郡山城(奈良県)

秀長が百万石の大大名となって入城し、その本拠としたのが郡山城です。元々、筒井順慶が築城した城を、城主となった秀長が大規模に改修しました。

秀長は、城郭を拡大整備するとともに、城下町の整備に尽力します。特に商業を振興させ、検地(太閤検地に先駆けて)を実施し、公平な税制を確立することで、領国全体の経済発展に手腕を発揮しました。当時の大和郡山城と城下は、畿内有数の商業都市として繁栄を極めました。

現在の史跡郡山城跡の石垣には、急ピッチな普請を物語る「逆さ地蔵」などの石仏が転用されており、当時の力強い権勢を伝えています。

C. 築城を命じた和歌山城(和歌山県)

天正13年(1585年)の紀州平定後、秀長は紀伊国を治めることとなり、この地の支配拠点として築城を命じたのが和歌山城です。

築城は築城の名手・藤堂高虎を普請奉行に起用し、紀ノ川河口の要衝に築かれました。この城は、紀伊・和泉支配の政治的・軍事的な拠点となり、秀長が西国大名として豊臣政権の要石となる役割を果たしました。

和歌山城は後に徳川御三家が居城としますが、その強固な縄張りの基礎は秀長時代に完成したものであり、城主としての先見性がうかがえます。

秀長の死が豊臣政権にもたらしたもの

豊臣秀長は、長浜城での修行時代を経て、大和郡山城と和歌山城を拠点に豊臣政権の屋台骨を支えましたが、天正19年(1591年)、病のため52歳という若さでこの世を去ります。

秀長の死は、豊臣秀吉にとってだけでなく、豊臣政権全体にとって致命的な出来事でした。温厚で公正な秀長という「調整役」を失ったことで、秀吉の独裁色や感情的な判断が増し、文治派と武断派の対立が激化。政権は次第に不安定化の道を歩むことになります。もし秀長が長生きしていたら、関ヶ原の戦いの結末は変わっていたかもしれません。

まとめ:名補佐が残した遺産

豊臣秀長は、兄の陰で常に誠実かつ有能に働き続け、城主としても卓越した統治能力を発揮しました。彼が関わった長浜城、大和郡山城、和歌山城は、彼の出世と功績の大きさを今に伝える貴重な歴史遺産です。

2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』をきっかけに、ぜひこれらの「城」を巡り、豊臣秀吉の弟が天下統一に果たした真の功績と、その温和な人柄に触れてみてはいかがでしょうか。