多聞山城移築城門 旧石田家住宅:戦国の遺構が今に伝える歴史

多聞山城移築城門 旧石田家住宅:戦国の遺構が今に伝える歴史 城ガイド

奈良に現存する旧石田家住宅の長屋門は「多聞山城の城門を移築した」という伝承が地域で語り継がれています。

城郭建築が民家の門として転用されたことが事実であれば、400年以上の時を経て今も残っている貴重な史跡と言えます。

この記事では、多聞山城移築城門 旧石田家住宅について詳しく解説します。

多聞山城移築城門(旧石田家住宅)とは

旧石田家住宅の長戸門は、多聞山城の城門を江戸時代に移築したものと伝えられています。

旧石田家住宅

地域の有力者として知られていた石田家は奈良県生駒郡安堵町に居を構えます。

それが奈良県生駒郡安堵町にある旧石田家住宅です。

門の両側や上部に部屋を設けた長戸門は、武家屋敷や豪農の屋敷でよく見られる建築様式となっています。

石田家は、筒井順慶と姻戚関係を持っており、譲り渡されたものと伝えられています。

移築城門の現在の姿

現在、この門は旧石田家住宅の敷地入口に配置されています。

管理状況の影響で一部劣化・変化しており、現在は文化財指定も受けていないため、残念ながら保存状態は良好とは言い切れません。

多聞山城の歴史

多聞山城は戦国時代を代表する武将・松永久秀によって築かれ、当時の最新技術を駆使した革新的な城郭でした。

多聞山城の歴史を紐解くことで、なぜこの城門が現代まで残されてきたのか、その価値の本質が見えてきます。

松永久秀による多聞山城築城

久秀は畿内で勢力を拡大していた三好長慶に仕え、大和国(現在の奈良県)の支配を任された人物です。茶の湯や文化に通じた教養人でもありました。

松永久秀は永禄2年(1559年)頃、奈良の多聞山に城を築きました。

多聞山は奈良盆地を一望できる要衝の地であることから、この地に城を構えることで、大和国の政治的・軍事的な中心としたいと考えたのです。

多聞山城の築城は、久秀の野心と実力を象徴する事業だったんだ。

しかし、久秀は織田信長に反旗を翻し、天正5年(1577年)に信貴山城で自害して果てます。

その後、多聞山城は信長の命により破却され、わずか20年足らずでその役目を終えました。

多聞山城

多聞山城は、「多聞櫓」と呼ばれる建築様式を採用しています。

多聞櫓とは、城壁の上に長く連続した櫓を設ける構造で、防御力を高めるとともに、兵士の駐屯や物資の保管にも利用できる設計です。

この建築様式は後に全国の城郭に広まります。

つまり、松永久秀の多聞山城は、日本の城郭建築史において革新的な役割を果たした城だったのです。

山の地形を巧みに利用し、複数の曲輪(区画)を配置し石垣や堀も整備され、当時としては最先端の防御施設を備えていたと考えられています。

このような高度な築城技術が用いられた城の一部が、民家の門として転用され、現代まで残っているということが本当なら、まさに歴史のロマンと言えるでしょう。

城門が石田家に移築された経緯

多聞山城は織田信長の命令で破却されましたが、その建築部材すべてが廃棄されたわけではありません。

当時、木材は非常に貴重な資源だったんだ。

そのため、破却された城の部材は、しばしば他の建築物に転用されることがあったといいます。

多聞山城もその一例と考えられます。

伝承によれば、多聞山城の破却時に、一部の資材や城門が筒井順慶から地域の有力者であった石田家に払い下げられたと言われています。

ただし、これを裏付ける明確な記録は残されていません。

ほかにも、城門を管理していた関係者が時間をかけて譲り渡した可能性も考えられます。

歴史的に由緒ある建築物を屋敷に取り入れることは、家の格式や威信を示す重要な手段であり、石田家が多聞山城の城門を自宅の門として移築したのも、自家の威信を高める意図があったと考えられます。

このように、伝承と地域の歴史的状況から、多聞山城の城門が石田家の門に転用された背景には、貴重な資源の再利用と家格の象徴という二つの要素が絡んでいると推測されます。

まとめ

多聞山城移築城門(旧石田家住宅)は、戦国時代の名将・松永久秀が築いた多聞山城の城門が、江戸時代に民家へ移築され、現代まで保存されてきた貴重な歴史的建造物です。

この門は、松永久秀という個性的な戦国武将の足跡を感じられる数少ない現存遺構として、その価値は計り知れません。

ただ、保存状態が良くないのでそれが残念なのだ…。

奈良を訪れる際には、こうした地域に残る歴史の断片にも目を向けてみるのも面白いです。