和歌山市の中心にそびえ立つ和歌山城。その白亜の天守閣は、地元の人々にとって、また観光客にとっても、まさに紀州のシンボルです。
和歌山城といえば「徳川御三家(紀州徳川家)」の居城として有名ですが、その歴代城主の歩みを遡ると、豊臣・浅野・徳川という三つの時代が見えてきます。なかでも城の礎を築いたのは、天下人・豊臣秀吉の弟であり、稀代の政治家・軍略家として知られる豊臣秀長(とよとみひでなが)です。
今回は、和歌山城の城主がどのように移り変わったのか、その変遷を辿るとともに、築城主・秀長の功績に焦点を当てて、この名城の奥深い魅力に迫ります。

和歌山城の歴代城主:豊臣・浅野・徳川へと繋がれた歴史
和歌山城は、天正13年(1585年)に豊臣秀長によって築城されて以来、明治維新まで約280年間にわたり紀州支配の拠点であり続けました。ここでは、その壮大な歴史を支えた歴代の主(あるじ)たちを一覧でご紹介します。
和歌山城 歴代城主・早見表
| 時代 | 主な城主(家系) | 期間 | 備考 |
| 豊臣期 | 豊臣秀長(羽柴秀長) | 1585年〜 | 秀吉の命により築城。藤堂高虎が普請を担当。 |
| 桑山重晴(城代) | 秀長の大和移封後、実質的な管理を行う。 | ||
| 浅野期 | 浅野幸長 | 1600年〜 | 関ヶ原の戦功により入城。連立式天守を築く。 |
| 徳川期 | 徳川頼宣 | 1619年〜 | 徳川家康の十男。紀州徳川家の祖。 |
| 徳川吉宗 | 1705年〜 | 五代藩主。後に八代将軍となり享保の改革を断行。 | |
| 徳川茂承 | 〜1871年 | 最後の藩主(十四代将軍家茂も紀州藩出身)。 |
豊臣秀長、紀州を平定し築城を命ず
和歌山城の歴史は、天正13年(1585年)の紀州攻めに始まります。
この戦いで紀州(現在の和歌山県)を平定した豊臣秀吉は、弟の羽柴(豊臣)秀長に、紀ノ川河口の虎伏山(とらふすやま)に新たな城を築くよう命じました。秀長は紀伊国と和泉国を与えられ、この地を治めることになったのです。
秀長が選んだ築城地である虎伏山は、その名の通り虎が伏せたような姿に似ており、天然の要害として非常に優れていました。秀吉が自ら縄張り(設計)を行ったとも伝わり、築城の名人として名高い藤堂高虎(とうどうたかとら)らが普請奉行を務め、わずか1年という驚異的なスピードで築城が進められたとされています。
この時、「若山」と呼ばれていた地名が、万葉集で歌われた風光明媚な「和歌浦」と、城が建つ「岡山」を合わせ、縁起の良い「和歌山」と改められたと言われています。秀長は、この新しい城と地名に、紀州支配の拠点としての大きな期待を込めたに違いありません。
しかし、秀長はその後、大和郡山城(奈良県)を本拠としたため、和歌山城には家臣の桑山重晴(くわやましげはる)が城代として入城し、初期の城の整備を進めることになりました。
秀長の築城が残した「野面積み」の石垣
和歌山城を訪れる際、ぜひ注目してほしいのが石垣です。和歌山城の石垣は、築城の時代によって石積みの工法が異なり、歴史の変遷を物語っています。
豊臣秀長が築いた初期の石垣は、加工せず自然の石をそのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」が中心です。これは、石と石の間に隙間ができて一見すると粗雑に見えますが、排水性に優れており、水圧で石垣が崩れるのを防ぐ効果があります。城内、特に二の丸庭園前など、城の創建期に近い場所に、この力強い豊臣時代の石垣を見ることができます。
その後、関ヶ原の戦いを経て入城した浅野幸長(あさのよしなが)の時代には、石を加工し隙間を減らす「打込みハギ」へ、そして徳川時代には精密に加工した切石を隙間なく積む「切込みハギ」へと変化していきます。
異なる時代の石垣を比較しながら歩くのは、まるでタイムトラベルをしているようで、和歌山城観光の大きな醍醐味の一つです。
また、石垣には大名の普請分担を示す「刻印(こくいん)」が2,000個以上も確認されており、これも秀長以降の改修の歴史を今に伝える貴重な手がかりとなっています。

徳川御三家へ受け継がれた秀長の城
豊臣秀長は文禄4年(1595年)に病没しますが、秀長の築いた和歌山城は、その後も紀州支配の要として機能し続けました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が城主となり、城の大規模な改築を行い、連立式天守を築くなど、近世城郭としての骨格を完成させます。
そして、元和5年(1619年)、徳川家康の十男である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入城し、紀州藩主となってからは、尾張・水戸と並ぶ徳川御三家の居城として、格式高い城として発展を遂げます。八代将軍徳川吉宗や十四代将軍徳川家茂を輩出した紀州徳川家の拠点として、和歌山城は日本の歴史の表舞台に立ち続けたのです。
秀長が築いた最初の城が、浅野氏の改築、そして徳川氏の大改修を経て、現在の姿に繋がっていると思うと、その壮大な歴史の流れを感じずにはいられません。
和歌山城 観光のハイライト
歴史を学んだら、いざ城内へ!和歌山城の主要な見どころを紹介します。
白亜の天守閣(連立式天守)
虎伏山の頂上にそびえる現在の天守閣は、戦災で焼失した後、昭和33年(1958年)に再建されたものです。大天守と小天守が廊下で結ばれた「連立式天守」という珍しい構造で、姫路城、松山城とともに「日本三大連立式天守」の一つに数えられます。最上階からの眺めは抜群で、和歌山市街はもちろん、紀ノ川や遠く淡路島まで見渡すことができます。

御橋廊下(おはしろうか)
二の丸と藩主の別邸があった西の丸を結んでいた斜めにかかる橋廊下です。かつては藩主とそのお付きの者だけが通ることを許されていた秘密の通路で、屋根と壁に囲まれているため、外からは中が見えないようになっています。現在は復元されており、実際に渡ることができます。


西之丸庭園(紅葉渓庭園)
藩主が風雅を楽しんだ場所で、内堀を池に見立てた池泉回遊式庭園です。特に紅葉の季節は「紅葉渓庭園」と呼ばれるにふさわしい絶景が広がります。庭園内の茶室「紅松庵」では、抹茶を楽しむこともできますよ。

おもてなし忍者
和歌山城公園には、土日祝日を中心に「おもてなし忍者」が出没します!彼らは観光客をサポートし、記念撮影にも快く応じてくれる、和歌山城名物の一つです。運が良ければ出会えるかも!?
和歌山城の「気になる」を解決!よくある質問
検索でよく調べられている、和歌山城の「築城」に関する疑問に答えます。
Q:和歌山城は結局、誰が建てたの?
A:最初の築城主は「豊臣秀長(羽柴秀長)」です。 天正13年(1585年)、天下人・豊臣秀吉の命を受けた弟の秀長が、紀州平定の拠点として築いたのが始まりです。
Q:設計(縄張り)をしたのは誰?
A:豊臣秀吉です。天正13年(1585年)の紀州平定の際、秀吉は和歌山(当時は若山)の地に立ち、虎伏山(とらふすやま)の地形を見て「ここに城を築け」と命じたとされています。 単に命令を出しただけでなく、軍事的な要衝としての価値を見抜き、自ら「縄張り(設計の基本方針)」を示したという説が有力です。秀吉が「構想」を練り、それを具体的な「カタチ」にしたのが、秀長の家臣であった藤堂高虎です。
Q:今の「白い天守閣」を建てたのは誰?
A:現在の連立式天守の形を造り上げたのは、関ヶ原の戦い後に入城した「浅野幸長」です。 秀長の時代はまだ簡素な城でしたが、浅野氏によって近世城郭としての骨格が完成しました。その後、紀州徳川家によってさらに改修・整備が進められました。
アクセス・インフォメーション
- 所在地: 和歌山県和歌山市一番丁3
- 電話番号:073-435-1044
- アクセス:
- JR和歌山駅、南海和歌山市駅からバスで「公園前」下車
- 南海和歌山市駅から徒歩約10分
- 阪和自動車道 和歌山ICから車で約15分
- 天守閣入場料: 大人 410円、小人 200円
- 天守閣利用時間: 9:00〜17:30(入場は17:00まで)
- ※公園は入場自由
- 所要時間:約1時間〜1時間半
豊臣秀長という名参謀が夢見た紀州の拠点として始まった和歌山城。その後、徳川御三家の威厳を背負い、激動の時代を生き抜いてきた名城です。歴史の深みと、美しい景観、そして楽しい仕掛けが詰まった和歌山城へ、ぜひ足を運んでみてください!




