2026年2月22日、初めて山梨県韮崎市にある新府城跡を訪問してきました。南北に細長く展開する縄張りが特徴的な城です。城内の主要な遺構はすべて歩いて回りましたが、戦国大名・武田氏の本拠地としては、現存する敷地だけでは少し手狭に感じられました。

しかし、ここにはさらなる拡張の余地が見て取れます。西側は断崖絶壁の「七里岩」に守られているため広げられませんが、南北方向にはまだ拡張が可能です。おそらく勝頼が描いた新府城の完成形は、今よりも遥かに広大なものだったのではないでしょうか。
築城開始から入城まで1年にも満たない短期間で築かれた城ですが、それにしては見どころが凝縮されています。特に南側の「丸馬出し」と「三日月堀」のセットは、まさに「土の芸術」と呼ぶにふさわしい見事な造形美でした。
丸馬出は外側に三日月形の空堀を掘って真正面からの侵入を防ぎ、左右の通路に散らした敵を攻撃する造りで、防御力が高く反撃に優れていました。
大坂冬の陣の際、真田幸村は南側に丸馬出を応用した出城「真田丸」を築きましたが、丸馬出を取り入れたといわれています。この話が事実ならば間違いなく新府城の丸馬出の影響を受けているでしょう。
武田滅亡後、天正壬午の乱で徳川家康は新府城を陣城として利用しました。家康はここで丸馬出を見ているはず。数十年の時を経て、自らがかつて陣を張った城の「牙」を再現した幸村と戦うことになるとは、夢にも思っていなかったはずです。
新府城の丸馬出は、単なる防御施設ではありませんでした。それは、追い詰められた武田氏が最後に到達した、攻防一体の「機能美の極致」です。家康は天正壬午の乱において、この城の構造を徹底的に観察し、その有効性を肌で感じ取っていたに違いありません。
一方、若き日の真田幸村もまた、武田家の人質として、あるいは真田領の近隣にある最新鋭の要塞として、この新府城の構造を深くその目に焼き付けていた可能性があります。
歴史学者・平山優氏は徳川家康にとって最大のライバルは武田信玄・勝頼親子、特に9年間にわたり熾烈な死闘を繰り広げた武田勝頼であると主張しています。
家康の最後の戦いに、最大のライバルであった武田の影響を受けた幸村だとは、武田流築城術の完成形が新府城で終わりを迎えたのではなく、真田丸として花開いたことを意味しています。新府城の計画が未完に終わった一方で、その核心部である『丸馬出』の思想だけは、敵であった家康の記憶と、遺臣であった真田の技を通じて、後世に語り継がれる最強の防御陣地へと昇華されたのかもしれません。
では、勝頼が死力を尽くして築き、家康が震撼し、後に真田丸へと昇華されたこの城には、具体的にどのような遺構が残されているのでしょうか。実際に現地を歩く際に、ぜひその目に焼き付けていただきたい『新府城・見どころ5選』をご案内させていただきます。
南の正面玄関「大手丸馬出し」と「三日月堀」

城の南側(大手口)には、武田氏の城郭建築を象徴する丸馬出しが配置されています。

- 見どころ: 半円形の土塁とその前面を囲む「三日月堀」のセット。ここから正面に富士山を望むロケーションは、新府城最大のフォトスポットです。

北東の弱点を守る「出構(でがまえ)」

駐車場から新府城をみると一番最初に目につくのが東出構です。
出構の機能はいまだ定まっていませんが間違いなく防御力を高めるために設置されたはずです。ここでは北からの侵入者を迎え撃つ説を取ります。

城の北東側は台地が地続きで、敵軍に攻め込まれやすい最大の弱点でした。ここを補強するために造られたのが、新府城特有の遺構である出構です。
- 見どころ: 堀のラインを外側に突出させることで、攻め寄せる敵を側面から射撃(横矢掛り)できる構造になっています。北東に2箇所設置されており、勝頼の防衛意識の高さがうかがえます。
天然の要害「七里岩(しちりいわ)」の断崖

城の西から南にかけては、釜無川によって削られた七里岩の急峻な崖が続いています。

見どころ: 人工的な土塁や堀だけでなく、この「天然の絶壁」をそのまま城壁として巧みに利用したのが新府城の強みです。

- 体感ポイント: 本丸付近は木々に覆われていますが、二の丸付近に移動すると視界が一気に開けます。崖下を見下ろすと、その高さと守りの堅牢さに圧倒されるはずです。ここから眺める釜無川と対岸の景色は、攻め寄せる敵軍を迎え撃つ勝頼の視点を追体験できる貴重な場所です。
城内最大級の「乾門(いぬいもん)付近の空堀」

城の北西に位置する「乾門」周辺には、非常に大規模な空堀が掘られています。

- 見どころ: ここの堀は特に深く、武田軍がいかに徹底して周囲を掘り割ったかが分かります。土塁の高さと堀の深さが作り出す高低差は、実際に歩いて体感すべき迫力です。
勝頼の決意が眠る「本丸跡」と「藤武神社」

城の最高所である本丸には、現在「藤武神社」が鎮座しています。

- 見どころ: 勝頼が自ら火を放ち、岩殿城(または天目山)を目指して退去した際、ここにはどのような景色が広がっていたのか。歴史の終焉を感じさせる、静謐で厳かな場所です。
新府城跡へのアクセス・見学の目安
最後に、これから新府城を訪れる方へのガイドをまとめました。
アクセス方法
- 電車をご利用の場合
- JR中央本線「新府駅」下車、徒歩で約15分。
- 駅からは緩やかな坂道ですが、七里岩の断崖を遠目に眺めながら歩くことができます。
- お車をご利用の場合
- 中央自動車道「韮崎IC」から約15分。
- 新府公園駐車場(無料)が利用可能です。駐車場からは東出構がすぐ目の前に見えます。
見学の所要時間
- 目安:1時間30分 〜 2時間
- 南北に長い縄張りや、主要な遺構(丸馬出し、三日月堀、乾門の空堀、二の丸からの景色)をすべて丁寧に歩くと、これくらいの時間は見ておいた方が良いでしょう。
2026年2月の訪問記を終えるにあたって。
多くの家臣の反対を押し切って強行された新府城への移転。その結果、勝頼と共にここへ移ったのはわずかな側近のみでした。歴史学者の平山優氏が指摘するように、この新府築城こそが「武田家滅亡の引き金」となったのは間違いありません。
突貫工事による疲弊、高天神城の見殺し、そして北条との同盟破棄……。重なる失政により、人々の心は勝頼から完全に離れてしまいました。たとえ新府城が完璧に完成していたとしても、主君のために戦う者がいない以上、滅亡は避けられなかったでしょう。そんな歴史の非情さを噛み締めながら、私はこの城を歩き尽くしました。
しかし、武田の魂は滅びませんでした。徳川家康は重臣・石川数正の出奔を機に軍法を「武田流」へと刷新し、その家康の最後の戦い(大坂の陣)で立ちはだかったのは、同じく武田の影響を色濃く受けた真田幸村でした。
武田の兵法を受け継いだ者たちが激突し、その勝者が太平の世を築いていく――。武田ファンとしては、まさに「灼熱の展開」と言わざるを得ません。滅びゆく城跡に立ちながら、その影響力の大きさを改めて実感した訪問となりました。
新府城は、武田家滅亡の悲劇を象徴する場所でありながら、その兵法が次代へと受け継がれていく「起点」でもありました。
一人の武田ファンとして、勝頼公の孤独な決意と、その後の歴史のうねりに思いを馳せながら歩いたこの一日は、忘れられない経験となりました。新府の地に残された「土の芸術」と「断崖の要害」。それらは、武田氏が最後まで戦い抜こうとした、紛れもない証拠だったのです。




