【歴史のIF】豊臣秀吉の「幻の徳川討伐」!大垣城の兵糧集積計画を阻止した天正大地震の衝撃

武将

秀吉が家康を「武力討伐」する寸前だった事実

「徳川家康は、戦国乱世を生き抜き、盤石の基盤を築いて天下を獲った」―これが一般的な家康像ですが、実は彼の人生には、豊臣秀吉による武力討伐によって、その命運が尽きかけるという極めて劇的な瞬間がありました。その時期は、有名な関ヶ原の戦いよりも遙か前の、天正13年(1585年)頃です。

小牧・長久手の戦い(1584年)で、家康は秀吉に対して局地的な勝利を収めましたが、全体としては戦線が膠着。秀吉は、家康の武力の頑強さを痛感し、次に仕掛けるのは徹底した準備に基づく総力戦、すなわち史上最大規模の軍事作戦であるべきだと判断しました。この「幻の徳川討伐」が実行されていれば、家康は間違いなく敗れ去り、後の江戸幕府は成立しなかった可能性が極めて高いと、多くの歴史学者が指摘しています。

本記事では、この未遂に終わった作戦の核心に迫ります。秀吉が仕掛けた周到な兵糧集積の実態、その中心地であった大垣城の重要性、そして、すべてを一瞬で水泡に帰した天正大地震の衝撃と、それが日本の歴史に与えた決定的な影響を詳述します。


計画の中核:豊臣兄弟と「大垣城」への兵糧集積の全貌

豊臣秀長の役割:ロジスティクスの最高責任者

徳川征伐計画において、豊臣秀吉は戦略の立案者にして総大将という最高意思決定者の役割を担いました。しかし、この巨大な作戦の実務と兵站を統括したのは、秀吉の比類なき片腕であり、軍事・内政・ロジスティクスに非凡な才能を持つ弟の豊臣秀長だったのではないでしょうか。

秀長は、九州征伐や紀州攻めなど、大規模な遠征において常に完璧な後方支援を確立してきた実績があります。彼ほどの地位と実務能力を持つ人物が、極めて機密性の高い対家康戦の大規模兵站の構築を任されたのではないでしょうか。

城マニア
城マニア

史料が存在しないから推測です。

10万人分の米!大垣城の巨大兵站の現実味

秀長が対徳川戦の最重要拠点として定めたのが、美濃国に位置する大垣城でした。大垣は、秀吉の本拠地である畿内から東海道・中山道を通り、家康の領国である尾張・三河へ攻め込むための戦略的な玄関口にあたります。

秀吉が想定した動員規模は、最低でも10万人に上る大軍でした。この膨大な軍勢を数カ月にわたる戦闘と占領期間を通じて養うためには、途方もない量の食料を備蓄する必要があり、その規模は数十万石(数十万俵)にも達したと推定されています。当時の兵士一人あたりの消費量から逆算すると、これは10万人の兵士を数カ月から半年以上支えられる量です。

秀長は、大垣城や周辺の倉庫群に、この大量の米や武具、弾薬を極秘裏に運び込み、いつでも出陣できる臨戦態勢を整えていました。これは、秀吉が家康に対して単なる「威嚇」ではなく、本気で滅亡を企図していたことの何よりの物的証拠です。家康にとって、まさに剣が首筋に突きつけられた状態でした。


運命の転換点:「天正大地震」の直撃

史上最悪の「潮目」を襲った大災害

徳川討伐計画が、完全に準備を整え、秀吉の最終号令を待つばかりとなっていた時、歴史を根底から覆す大事件が発生します。天正13年11月29日(西暦1586年1月18日)に起きた天正大地震です。

マグニチュード8クラスと推定されるこの巨大地震は、よりにもよって、秀吉が前線基地としていた美濃・近江・伊勢といった地域を直撃しました。これは、豊臣兄弟が築き上げた軍事網の、まさに心臓部でした。

兵站の崩壊と計画の「中止」決定

地震による被害は壊滅的でした。

  • 大垣城の倒壊: 重要な兵糧集積地であった大垣城をはじめ、近隣の城や倉庫が軒並み倒壊しました。秀長が苦心して運び込んだ数十万石の兵糧は、瓦礫の下敷きとなり、泥水に浸かるなどして多くが使用不能に陥ったと見られます。
  • 軍事行動の物理的停止: 大規模な軍事作戦は、兵站が一つでも欠ければ成り立ちません。兵糧(補給)が失われた上、軍道の寸断、城の倒壊、兵士の家族の被災などにより、秀吉はもはや軍を動員するどころではなくなりました。

この瞬間、秀吉による武力による徳川討伐は、人間の意思によってではなく、天災という不可抗力によって永久に中止せざるを得なくなりました。豊臣兄弟の野望は、天災によって砕かれたのです。


歴史のIF:地震がなければ家康は滅びていた?

運命の「偶然」が家康を救う

天正大地震が日本の歴史に与えた影響は計り知れません。この地震は、被害が秀吉側の前線基地に集中したのに対し、徳川家康の本拠地である三河・遠江では比較的小規模な被害に留まりました。

この「偶然」が、家康に窮地を脱する時間的な猶予を与えました。この地震がなければ、準備万端の秀吉軍が数ヶ月以内に攻め込み、家康が滅亡していた可能性は非常に高いとされています。

武力から政治へ:臣従という決着

軍事行動が不可能となった秀吉は、戦術を武力から外交へと切り替えました。彼は、自らの母である大政所を家康の領地に人質として送り込むという、異例中の異例の手段を使い、家康に上洛と臣従を強く迫りました。

結果、家康は秀吉に形式的に臣従し、徳川討伐は武力ではなく政治的な勝利という形で幕を閉じました。家康は命脈を保ち、秀吉が天下統一を完成させた後も、豊臣政権下で最大の勢力としてその基盤を維持し続けます。この「生かされた家康」こそが、約20年後に江戸幕府を開くことになったのです。


まとめと見どころ:幻の征伐の舞台「大垣城」へ

豊臣秀吉が仕掛けた徳川討伐計画は、豊臣秀長が大垣城に集積した大規模兵糧とともに、天正大地震によって永遠に「幻の作戦」となりました。

この歴史的な転換点の舞台となった大垣城は、現在、美しい天守閣と史料館として再建されています。城内では関ヶ原の戦いに関する詳細な展示を見ることができますが、その史料を紐解きながら「もしあの地震がなかったら」という戦国末期の巨大なドラマに思いを馳せるのは、歴史ファンにとってこの上ない醍醐味となるでしょう。