「もしも武田勝頼が岩櫃へ逃避していれば」という「もしも(if)」の問いが多くの人を惹きつけています。
単なる歴史の空想ではなく、物語性、劇的な要素、そして歴史観を揺さぶる可能性を内包しているからではないでしょうか。
幻の逃避行
1582年(天正10年)、戦国最強と謳われた武田家は、織田信長・徳川家康連合軍による「甲州征伐」によって、瞬く間に崩壊しました。偉大なる信玄の築いた国は瓦解し、主君・武田勝頼は、まさに死地を彷徨うことになります。
有力な一門や重臣たちが次々と裏切り、戦線を離脱していく中、ただ一人、勝頼に武田家再興の希望を繋ごうとした男がいました。それが、稀代の智将、真田昌幸です。
昌幸が勝頼に強く進言したのが、「わが領地、上野国(こうずけのくに)の岩櫃城へお越しください」という献策でした。岩櫃城は、昌幸が全知全能を傾けて整備した、難攻不落の要塞です。
しかし、勝頼は最終的にこの献策を退け、小山田信茂を頼って郡内(ぐんない)へ向かう道を選びます。その結果、裏切りに遭い、天目山(てんもくざん)で自刃。武田宗家はここに滅亡しました。岩櫃城への逃避行は、「幻」として歴史に刻まれることになったのです。
絶望的な状況下での「最後の希望」という物語性
- 大いなる悲劇の回避: 武田家という名門が滅びるという、戦国史最大の悲劇の一つにおいて、唯一無二の救済ルートとして岩櫃城が提示されました。この最後のチャンスを逃したという事実は、人々に「あと一歩で救われたのに」という強い未練とドラマを感じさせます。
- 忠義と裏切りの対比: 忠臣・真田昌幸の献身的な準備と、それに背いた勝頼の選択、そしてその後の小山田信茂の裏切りという、「忠義 VS 悲劇的な選択 VS 裏切り」の鮮やかなコントラストが、人々の感情を揺さぶります。
真田昌幸という「稀代の智将」の存在感
- 天才の選択: 逃避先に岩櫃城を選んだのが、後の関ヶ原でも徳川秀忠を足止めした稀代の策士・真田昌幸であった点が大きいです。彼が選んだ策であれば、成功した可能性が高いという説得力があります。
- 真田家との関係性: この逃避行が実現していれば、その後の真田家の運命も大きく変わっていたでしょう。真田氏のドラマの原点として、この「幻の逃避行」が語られます。
歴史の流れを根底から覆す「大逆転」の可能性
- 本能寺の変との連動: 逃避行の失敗からわずか3ヶ月後に本能寺の変が発生するという、劇的な時間差があります。もし岩櫃城での籠城が続いていれば、信長・信忠の体制が盤石でないうちに彼らが倒れ、武田家が滅亡を回避できた可能性が極めて高いです。
- 歴史の分岐点: これは、単に一武将が生き延びるという話に留まらず、織田体制の確立、豊臣秀吉の天下統一、そして徳川家康の勢力拡大といった、その後の日本の歴史全体を左右する分岐点であったと認識されているため、関心が高いのです。
難攻不落の「岩櫃城」という舞台の魅力
- 要塞のリアリティ: 岩櫃城が本当に難攻不落であったことが、現代の史跡からも確認できるため、単なる空想ではなく「現実的に可能だった」という裏付けがあります。この堅固な城が、戦国のロマンを掻き立てる舞台装置として機能しています。
岩櫃籠城時の織田軍の対応推測
武田勝頼が真田昌幸の進言に従い、難攻不落の岩櫃城に籠城していた場合、織田軍の行動は以下のように推測され大逆転の可能性を高めます。
信長・信忠は短期で帰国する可能性が高い
織田信長と嫡男の信忠が長期にわたって甲斐・信濃国境付近に留まる必要性は低いでしょう。
- 戦略目標の達成: 甲州征伐の最大の目標は武田宗家を滅亡させることであり、その過程で甲斐・信濃を制圧することでした。勝頼が岩櫃城に入った時点で、武田家はほぼすべての旧領を失い、「滅亡寸前の状態」です。信長からすれば、最大の脅威は去ったと見なせます。
- 信長の次の計画: 信長は常に天下統一という次の大きな目標を見据えており、毛利氏、石山本願寺残党、そして朝廷との関係構築など、やるべきことが山積みでした。一国境の山城の包囲に時間を費やすことは、信長の戦略に反します。
- 全軍撤退の可能性: 信長は、勝頼が岩櫃城に逃げ込んだと確定した時点で、信濃・甲斐方面の武将に後事を任せ、自身は京へ帰還したでしょう。
滝川一益(たきがわ かずます)に包囲を任せる
勝頼が籠城した場合、包囲戦の責任者として任じられるのは、当時、上野国を含む旧武田領の東半分を任されていた滝川一益となる可能性が極めて高いです。
- 任務と配置: 滝川一益は、武田滅亡後、上野一国と信濃の一部(佐久・小県郡)を与えられており、岩櫃城はまさに彼の管轄下にありました。
- 現実的な判断: 難攻不落の岩櫃城を落とすには、大規模な力攻めは非現実的です。信長は滝川に対し、強引な攻撃ではなく、長期的な兵糧攻めや調略(真田氏の切り崩し)によって時間をかけて攻略するよう命じたでしょう。
歴史的「if」:本能寺の変との関連
勝頼が岩櫃城に籠城していた最大の「if」は、本能寺の変(1582年6月)との関連です。
- 籠城の継続: 岩櫃城での籠城戦が3ヶ月間続いていれば、信長は京へ帰還していたとしても、岩櫃城の攻略は完了していません。
- 滝川一益の孤立: 本能寺の変が発生し、信長が急死すると、滝川一益は旧武田領のど真ん中で孤立無援となります。彼は急ぎ、上野から退却せざるを得ず、岩櫃城の包囲は自動的に解かれることになったでしょう。
したがって、勝頼が岩櫃城に入っていた場合、信長・信忠は短期で帰京し、滝川一益に包囲と攻略を任せるという展開が最も現実的であり、武田家は本能寺の変で九死に一生を得ていた可能性が高いと言えます。
究極の「見たかった展開」
- 昌幸の智謀が炸裂する籠城戦: 滝川一益を相手に、岩櫃山の断崖を盾にした真田流の防御戦が展開されたはずです。調略を仕掛ける滝川、それをことごとく跳ね返す昌幸の頭脳戦は、さぞかし面白かったでしょう。
- 「本能寺の変」の知らせ: 籠城中に、「信長が死んだぞ!」という報せが届く瞬間。岩櫃城内は歓喜に沸き、武田家再興の光が見えた瞬間を、ぜひ見てみたかったですね。
- 真田家の立場向上: 勝頼を救った昌幸は、武田旧臣や北条・上杉から絶大な信頼を得て、その後の真田家の勢力拡大がさらに加速したかもしれません。
この「幻の逃避行」は、歴史の厳しさと、わずかな選択の違いがもたらす運命の綾を感じさせる、非常に魅力的なエピソードです。
一瞬の選択、千年の悔い:幻の逃避行の残照
岩櫃城跡に立てば、眼下に広がる吾妻の山河は、今も静かに時を刻んでいます。
あの時、武田勝頼がわずか数日の猶予で、忠臣・真田昌幸の進言を受け入れていたなら、武田家は「本能寺の変」という歴史的な追い風を掴み、その滅亡を回避できたかもしれません。
しかし、勝頼は岩櫃ではなく、別の道を選びました。
この「幻の逃避行」は、戦国時代において、個人の一瞬の判断が、いかに巨大な歴史の流れを変え得るかを私たちに教えてくれます。そして、岩櫃城は、「忠義」と「運命」の重さが交差した、日本史上最もドラマティックな「もしも」の舞台として、永遠に語り継がれるでしょう。
城跡に足を運び、この地で潰えた武田家再興の夢と、真田昌幸の熱き魂を感じてみてください。
岩櫃城跡(いわびつじょうあと)の基本情報
岩櫃城は、戦国時代に真田氏が上野国(群馬県)へ進出する際の拠点として機能した、難攻不落の山城です。武田信玄の時代には「武田の三堅城」の一つに数えられました。
| 項目 | 詳細 |
| 所在地 | 群馬県吾妻郡東吾妻町原町 |
| 築城者 | 吾妻太郎助亮(鎌倉時代)、後に真田昌幸が大規模改修 |
| 別名 | 平沢城 |
| 城郭構造 | 山城(標高802mの岩櫃山中腹) |
| 特徴 | 天然の断崖を利用した要害。真田氏の知略が詰まった堀切や竪堀が残る。「幻の逃避行」の舞台。 |
| 入場・料金 | 自由に見学可能(無料) |
| 所要時間 | 登山口から本丸跡まで徒歩約20~30分(登山道による) |
アクセス情報
岩櫃城跡への主要な登山口は平沢登山口です。
公共交通機関を利用する場合
| 交通手段 | ルート | 所要時間(目安) |
| JR吾妻線 | 「群馬原町駅」下車 | 駅から登山口まで徒歩約30~40分(坂道) |
| ※駅からのバスやレンタサイクルはありません。 |
車を利用する場合
| 目的地 | 詳細 | 補足 |
| 高速道路 | 関越自動車道 渋川伊香保ICから国道17号、国道353号などを経由 | ICから約1時間 |
| 駐車場 | 平沢登山口に無料駐車場あり | カーナビ設定にはマップコードが便利です。 |
岩櫃城 続日本100名城スタンプ設置場所・連絡先
スタンプの押印場所と営業時間が季節によって異なりますのでご注意ください。
| 期間 | 設置場所 | 営業時間(目安) | 電話番号 | 所在地 |
| 4月1日~11月30日 | 平沢登山口観光案内所 | 9:00~16:00 | 0279-26-7088 | 吾妻郡東吾妻町大字原町1965-2 |
| 12月1日~3月31日 | (一社)東吾妻町観光協会 | 9:00~17:00 | 0279-70-2110 | 吾妻郡東吾妻町大字原町627-2 |
※年末年始は休業となり押印できない場合があります。最新情報は東吾妻町観光協会にご確認ください。




