【国史跡指定記念!】別名「金亀城」!大友宗麟の夢の跡「臼杵城」完全ガイド:難攻不落の海城と感動の見どころ

金亀城 臼杵城 城ガイド
臼杵城

大分県臼杵市に佇む臼杵城は、その優美な姿から「金亀城(きんきじょう)」とも呼ばれる名城です。戦国大名大友宗麟の壮大な夢と、江戸時代を通じて豊後国を治めた稲葉氏の歴史が凝縮された、まさに「生きた歴史博物館」です。

特に、2025年3月10日に国史跡に指定され、その歴史的価値が改めて注目されています。

本記事では、別名「金亀城」の由来、臼杵城の見どころ、歴史背景、そして城跡ならではの絶景を徹底的にご紹介します。臼杵城を訪れる前の予習に、また、次の旅の目的地を探す参考にしてください。

臼杵城の歴史:天然の要塞「丹生島城」と「金亀城」の由来

臼杵城跡
臼杵城跡

創設者:キリシタン大名・大友宗麟の野望

臼杵城の始まりは、16世紀の戦国時代にさかのぼります。豊後国を支配し、一時は九州六国を制した大友宗麟が、1562年頃に臼杵湾に浮かぶ「丹生島(にゅうじま)」に築いたのが、後の臼杵城です。

当時は、干潮時以外は海に囲まれる断崖絶壁の島であり、別名「丹生島城」とも呼ばれる難攻不落の「海城(うみじろ)」でした。宗麟はここを南蛮貿易の拠点とし、城内に礼拝堂を設けるなど、キリシタン大名らしい斬新な城造りを行いました。

別名「金亀城」の由来

この臼杵城には、水上に浮かぶ姿が「金色の亀」に似ているという故事、あるいは伝説に由来して、「金亀城」という優雅な別名が付けられました。多くの城が持つように、この美しい呼び名は、城が地域の人々にいかに愛され、重要視されてきたかを物語っています。

知って納得の歴史小話: 宗麟がポルトガルから輸入した大砲「国崩し(くにくだし)」は、この臼杵城に配備され、島津軍との戦いでも使用されたと記録されています。この強大な武器が、美しい「金亀城」を守っていたのです。

近世城郭への改修と国史跡への指定

関ヶ原の戦いの後、1600年(慶長5年)に稲葉貞通(いなばさだみち)が入封して以降、明治維新までの約270年間、稲葉氏15代が居城とする臼杵藩の藩庁となりました。

臼杵城跡は、中世(大友氏時代)から近世(稲葉氏時代)にかけての城郭の変遷がわかる貴重な歴史的価値が評価され、2025年3月10日に国の史跡に指定されました。


必見!「金亀城」の感動の見どころ5選

現在は「臼杵公園」として整備されていますが、石垣や櫓(やぐら)の跡からは、当時の威容を肌で感じることができます。

畳櫓(たたみやぐら)と卯寅口門脇櫓

臼杵城の畳櫓
畳櫓

二の丸に残る現存する櫓の一つ、畳櫓は重厚な造りが特徴です。畳櫓は江戸時代後期に再築され、20年ほど前の調査で敵を監視・攻撃する銃眼「隠し 狭間」が見つかった。

また、本丸に残る卯寅口門脇櫓は、切妻造りが美しい貴重な建造物で、「金亀城」のシンボルの一つとして親しまれています。

卯寅口門脇櫓は、江戸時代末期に再築され、火薬庫としても使われたことから「鉄砲薬櫓」とも呼ばれています。

卯寅口門脇櫓
卯寅口門脇櫓

いずれも1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」で、全国に4例しか残っていない珍しい構造です。

圧倒的な高石垣と空堀

臼杵城の石垣と空堀
石垣と空堀

かつて海に囲まれていた名残である断崖絶壁の地形を活かした石垣は、迫力満点です。特に、海鹿櫓(あしかやぐら)周辺の石垣は、堀の水面から約10mの高さがあり、防御の巧みさが体感できます。

天守台の石垣(太田期・文禄~慶長期)

臼杵城の天守台跡
天守台跡

天守は明治時代に取り壊されましたが、その土台となった天守台の石垣は今も残ります。この石垣は、太田氏の時代に築かれたと推定されており、築石や角石の積み方から当時の高い技術力を読み取れます。

臼杵湾を一望する絶景

城跡は高台にあり、臼杵市街地と臼杵湾を一望できます。ここから景色を眺めると、かつて「金色の亀」のように水上に浮かんでいたであろう城の姿と、歴史のロマンをより深く感じることができます。


臼杵城観光のアクセスと散策のヒント

  • アクセス: JR臼杵駅から徒歩約15~20分。自家用車の場合は、臼杵公園駐車場(城跡直下)の利用が便利です。
  • 散策時間: 城跡のみであれば約1時間、周辺の武家屋敷や二王座歴史の道を含めると半日~1日かけてゆっくり巡るのがおすすめです。